主体化する主観――アニメの<カメラ>に関する一考察

一応前回(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090120/1232386361)の続きです。考察というか、ひとつの思考実験な感じかもしれません(グダグダなので)。引用画像に関しては前回と同じ意味合い(というか、わたしは常にそういう意味で引いてるんですけど)です。



アニメのキャラクター(僅かでも多少でも何らかの動きを伴う場合)の身体、あるいはその動き、あるいはそのもの、それの「主体」はどこにあるか――先日の文章(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090120/1232386361)では、キャラクターに所与しながら、かつアニメーター(作り手)に所与しながら、結局所与できない部分も生じて、究極的には「無い」と結論付けました。もちろんこれは「究極的」と記したように、つねにそうなのではなく、(いずれにせよ回収しきれない残余が生じるとはいえ)映像の性質に依り変動するもので、(それが通常で表現できているという前提の元では)たとえば観鈴が「にはは」と笑うような運動――キャラクター固有の個性となっているものは、概ね、キャラクターそのものに回収されます。よほど上手い人が手がけた、よほど下手な人が手がけた、ような場合でない限りは、それに関しては、キャラクター固有のものとして標榜なされていて、ある意味誰が手がけても交換可能なだけの主体性をキャラクターが有している。逆に、それを超越するほど上手い・あるいは下手という意味で特徴的であれば、それは絵を描いた人(作り手)に回収されるでしょう。いわゆる「神作画」と呼ばれているものは、そこで描かれたキャラクターが「普段より頑張ってよく動いたから」普段より濃密に動いているのではなく、アニメーターが普段より濃密に動かしているからこそ普段より濃密に動いているであり、その結果はキャラクターには逆行的にしか還元されない。それはいわゆる「作画崩壊」でも同じでしょう。キャラクターが変な動きをしたのではなく、作り手が変な動きの絵を描いたから、キャラクターが変な動きをしている。こういったものであれば、そこでの主体は、概ね、作り手の方に回収されるでしょう。
これは「視聴者にとって」です。そのような強く回収される影響下での運動に対するわたしたちの感想・感情は、そうであるからこそ、そこに影響され、何かを規定され、つまり、その前提の所為で、まるでそれに対する反応のようになってしまうのです。
しかし、そういうものではない運動に関して、視聴者にとってはどうでしょう。特に何の含みも無い動き。キャラクター固有というより、人間なら普通にありうる動き。特に何の含みも無い絵。統一的で少なくともその作品内においては非特徴的な作画。強く特徴的なものでも、いずれにせよ回収しきれない残余が生じることは記しましたが、このような場合においては、むしろそれが大部分を占める――つまりは、わたしたちが受け流すように受容するような、よくある、作品の大部分を占める、普通の動きです。そこでは果たして、キャラクターにも作り手にも主体は回収されずに、宙に浮いたままの、”ただの描写”となりえるのではないでしょうか。
しかし、果たしてつねにいつもでそうなのか。そうとは言えないかもしれません。というのも、キャラクターと視聴者をキルティングしている存在――『カメラ』があるからです。
実写映画であれば、比較的「そうだ」と謂えるでしょう(もちろん、この考えをそのまんま適用して・この流れで「そうだ」というわけではありません)。カメラを通して観るそれは、指示対象の無い、客体のみの、描かれたもののみがある「それ」になりうる。人間の目が物自体を見れないという事実に近いような意味でです。しかしアニメの場合は果たしてどうなのでしょう。アニメの「カメラ」は、映画の「カメラ」と大きく異なります。実写映画は、なにかある物を映すという意味でのカメラなのに、アニメのカメラは、原理的にはそうだとしても、実質的には大いに異なります。むしろわたしとしては、アニメにおいて「カメラ」というのは、便宜的にそう呼んでいるだけであって、本来は「カメラ」という呼称を用いない方が良いのではないかと思っています。そのぐらい、実写とアニメのカメラには、何か、妙な、隔たりがある。
カメラを監督の眼に喩える――「主観」とする喩えは、あくまで喩えとして、よくあります(ありました)が、アニメの場合は、カメラが「主観」というよりも、もはや「主体化」しているのではないかと思うのです。現実にある何かを映す、ではなく、現実にない何かを構築する、というこの形式が――つまり形の上だろうとも記録という形式を取っていないと言えるその構造が、そこに纏わる恣意性が、アニメにおいては主観というより「主体」と化しているのではないかと。基本的に、少なくとも形の上は、フィルムのカメラが記録装置的である(だからこそ鏡像段階とか言い出す批評家がいるわけです)のに対して、アニメのカメラは記述装置的なのではないかと思うのです。





まりあ†ほりっく』という作品を観たのが、この文章を書くきっかけとなったのですが、当作品においてはいたく非写実的な表現が用いられています。画面上にSDキャラが出てきて、その対象となっているキャラの心情を表すかのような仕草をしたり、大声の表現かのように、声が大きな文字となって世界に視覚的にも轟いたり、キャラクターの背景を、誰かの心情か何かの暗示や暗喩を表すかのように、イメージ的なものにしてみたり(別に『まりあ†ほりっく』に特別限った事柄ではありませんが)。
これを、今わたしが「表すかのように」「表現かのように」と記したところの意味で、受け取ることはできます。彼女の心情を表してるのか、とか、誇大表現的なものか、とか、何かを暗示してるのか、とか。しかしそうなると、一つの疑問が生じてくるのです。「じゃあこの表現は誰の主観なんだ」「この表現の主体はどこにあるのか」。たとえば、もし彼女たちの心情”だとしても”、それをこのように画面上に表しているのは、決して彼女たち自身ではない。

キャラクターの主観・主体に回収しきれないですし、「絵を描く」という意味でこの世界を創造している作り手に回収しきることもできない……。強いて言えば演出や監督、まあ実際の所はどこからどこまでが誰の手によるものか明らかではないので、演出や監督さんがアイコンとして強烈に成り立っているようであれば、そこに回収されやすい(シャフトでしたら、実際に彼がそこにどの程度手を出しているか明らかでなくても「新房」というアイコンに回収されやすい)、そうでなければ、またそこで回収しきれない分は、制作会社の方に回収されるでしょう。京アニがとか、シャフトがとか、ガイナックスがとか、そういう具合で。
ここで重要なのは、それにも回収しきれない残余が生じるのではないか、ということです。
キャラクターの運動に関しては、回収しきれないから、宙に浮いているからこそ、その主体なき像を、その回収されない分、つまりその残余の分だけ、自由にもてあそぶことが可能なのに。フィルムの場合の記録装置としてのカメラではない、アニメの場合の記述装置としてのこの<カメラ>は(というか、記述装置であるという前提を持ってすると)、それゆえに、全ての主体を究極的にはそこに回収することが可能になっている。例えるならエクリチュールの概念みたいなものです(無論完璧に文学におけるそれと同一に考えることは不可能だと思いますが)。受け手にとっての文章の主体が究極的にはテクスト(間テクスト含めて)に回収可能なのと同じ様に、アニメの映像というのも、視聴者にとって、究極的にはその<カメラ>に主体が回収できてしまうのではないか。とはいえ、文学と同じく、少しも過不足不可分なくきっちりとテクストが回収しきれるわけではなく、多義性・多音性の隙間をついて、あるいは無意味性・無義性の溝を通って、受け手にとって回収しきれない(決定しきれない)部分が生じてきます。ひとつ前の記事に書いた、キャラクターの身体に対する受け手の受容の仕方(わたしがエロエロ言ってた部分です)は、それのことを指しているのです。


「じゃあこの表現は誰の主観なんだ」「この表現の主体はどこにあるのか」の答えを、つまり、で記すと。『カメラである』といえるでしょう。「監督」の、あるいは「演出」の、もしくは「作り手」の、ともいえるかもしれないけれど、それこそテクストの概念と同じ様に、その不明さを、何より「わたしたち視聴者にとっての」その不明さを慮れば、<カメラ>のといえるでしょう。キャラクターの心情などと相乗する時もあれば、物語と相同する時もありつつ、しかし視聴者に対しまさに言葉通りの「描写」を行っているといえる、アニメのカメラは、それゆえに、描かれているものの主体である、と(いささか乱暴であることは承知していますが)言えるのではないでしょうか。

まりあ†ほりっく』の見方





シャフトさんの作品は、もちろん「作品(もの)による」という前提込みですが、視聴者によっては「演出過剰・演出過多」で肌に合わない、という反応を示される場合が見受けられます。
実はわたしもあまり肌に合うとは言えないタイプでして……『ひだまりスケッチ』あたりは楽しんで見れたのですが、『ef』あたりになるともう付いていけませんでした。めちゃくちゃ気合い入れるか、あるいはよっぽど適当な態度にでもならない限り、観ることができなかった。どうしてかというと、やはりその「演出過剰・演出過多」と呼ばれるような部分からです。
まず二点ありまして、ひとつは、その多義性。意味の不確定性。簡単に申し上げれば、「はたしてこれは何を表現しているのか」(めっちゃ乱暴に言うと「こういう表現をする必然性はどこにあるのか」)。SDキャラだったり、特殊な背景だったり、いや背景どころかキャラクター自体特殊な塗り方をしたり、奇妙な動きを見せたり、画面上に文字が書き込まれたり、室内に配置されたオブジェクトがちょっと目を離した隙に別の物にすり替わっていたり……。しかもそれらが、”たまに”ではなく、”しょっちゅう”あるのです。ただでさえ「何を意味しているのか」「何を表現しているのか」が、どうしても結論付けれないほどに不確定なのに、圧倒的な『量』でもってして描き続けられれば、ひとつを咀嚼する前にまた新しいひとつが登場し、量の波に意味の線が押し流されていき、さらには相対化され、もはや「どう観ていいのか分からない」ほどになってしまうのです。
ふたつめは、前記事にも書いたように、作り手側の意思・意図が覗けるようなものであると、わたしたちは自身の感情・感性も、そこに影響され、何かを規定され、つまりわたしたちの感想や感動が、”それに対する反応のように生じてしまう”、という点。意図の表出は、上手いものになると、それをミスリードのように用いたり、さらにはキャラクターや物語からの要請かのように、本来作品に内在されているものでもあるかのように融合的に倒錯させたり(たとえば(印象批評になってしまいますが)『彼氏彼女の事情』最終回なんかは、意図や意思が作品の表現方法にとって必然であるかのように融け合っていて、衝撃を受けた記憶があります)というのもあるのでしょうが、シャフトのその、圧倒的な『量』、また意味方向性的に非統一的なそれは、あまりにも多義的になりすぎて、もはや「意図・意思を”そのまんま”観ている」ような錯覚さえ覚えてしまいます。
これを、先ほど提唱した「<カメラ>が主体」という概念を通して観ると、驚くほどクリアになるのです。
わたしたちは、どこかで「アニメで描かれているものは『何かを描いている』」と思ってはいないでしょうか? 一番典型的なのは原作付きアニメです。いわゆる「原作派」のアニメに対する否定的な言及と、「(原作未読の)アニメ派」のアニメに対する肯定的な言及――同じアニメを見ているはずなのに、否定と肯定と全く正反対の意見を互いに持つ現象――は、まさにその点にあるといえるでしょう。原作派は、アニメのとあるシーンを、「原作のとあるシーンをアニメで描いた」として理解している。アニメ派はそうではなく、「(原作の存在自体はもちろん知ってはいるから留意はしつつも)アニメで描かれているものはただアニメで描かれているものである」として理解している。軋轢が生じるとしたらそこなのです。
ここでは、発想を転換することが一番の対応策になるといえるでしょう。「原作の○○のシーンが上手く再現できていない」と言っても、そもそも、アニメは別に原作を再現などしていない。映像に指示対象などはなく、ただ映像そのものがあるのみである。や、もちろん、全くもってこれっぽっちも原作を再現していないなどと言い切るつもりはありませんし、そうはわたしも思ってはいませんが、しかしそれは、本質的には――眼前に現前しているテクスト的には――、参考として、参照としてのそれはあるとしても、指示対象としてのそれは「無い」というべきなのです。
この考え方は非原作アニメ、つまりアニメオリジナルの作品にも応用できるでしょう。わたしたちは、どこかで「アニメで描かれているものは『何かを描いている』」と思ってはいないでしょうか。しかし本当はそうではないのかもしれません。演出は、まるで<もともとそれとして在る世界>に付け足された強調符や添加物のように感じてしまうかもしれないけれど、しかし本当は、<もともとそれとして在る世界>そのものが、既に「その演出込み」としてあるのではないでしょうか。『まりあ†ほりっく』は原作付きアニメなので、ちょっと外れた喩えになってしまいますが、それを承知で言うと。<あの世界>は、SDキャラがちょこまか出てきたり、風景や背景が特殊だったり、いや背景どころかキャラクター自体特殊な色をしたり、奇妙な動きを見せたり、画面上に文字が書き込まれたり、室内に配置されたオブジェクトがちょっと目を離した隙に別の物にすり替わっていたり、は”しないで”、本当は、わたしたちの現実世界と同じ様な世界で、そこに演出としてそれらが”足されている”とわたしたちは思い込んでいるけれど、実は逆なのではないか。<あの世界>そのものが、それら演出を既にして内包している世界なのではないか――それはその世界の人間には見えず、<カメラ>を通した時にだけ必然的に見えてしまうものなのかもしれない、としても――。
わたしなりの『まりあ†ほりっく』の見方はそういうことです。圧倒的多量の多義性の波に攫われない為に、ひとまず、主体をカメラに還すのです。その後に、落ち着いて、この世界を、このアニメを観る。一気に解読しようとしないで、しかるべき手順を踏んだ後での解釈なら、これはキャラクターの心情を、これは物語の行く先の暗示を、これは○○を、と、その多義性の波に飲み込まれないで咀嚼することができる……というか、それだけじゃないのですが(しかもなんかシニシズムみたいですが)、……うーんと、なんというか、自分でもよく分からないというかw やっぱまだ、自分自身の中で考えが言語化できるように纏まっていないようです。そのうち書き直し(書き足し)ます。

らき☆すた』1話

<カメラ>が主観ではなく主体として物語を作り出している例として、ひとつ個人的に面白いなと思った作品を挙げると、『らき☆すた』の1話なのですが。



らき☆すた』1話は、基本的に、というかほぼ全て、淡々と流れていきます。『カメラ』の自己主張が非常に抑えられています。特徴的なカメラワークやエフェクト、いわゆる演出というものが、視聴者を絶対的に注意付けるような強度を持って施行されてはいませんでした。その中で、唯一、誰もが目に見てわかるような勢いで示されたのが、上の画像に引用した場面。そこでのカメラは、イマジナリーラインを越えると同時に逆光を浴びて、それまでの淡々としたものとのコントラストも相まって、まるで「ここが注目点」のように機能していました。そして実際、放映当時は、「そこを注目点」と捉えた感想が幾つかネット上に書かれて、話題になったりもしていました。かく言うわたし自身も「そこが注目点」だと思い、そういう方面から感想を書いていたひとりなのですがw
カメラに主体が回収されてるから気付かなかったけど、実はこれ、逆かもしれないんですよね。
「注目点だから」カメラが注目させるべく機能したのではなく、カメラが演出的に機能したから結果的にそこが「注目点になってしまった」。そう、実際は、”あの世界では”、”彼女たちにとっては”、”1話のお話では”、それどころか”全体を通しても”、あの場面は、他の場面を(カメラを演出的に機能させないことにより)注目に値しないものにしてまであの場面を注目に値させるほどの「注目点」であるとは言い難いのです。つまり、『らき☆すた』1話のそこは、こう解釈することも充分に可能なのです。カメラが勝手に物語を作り出している、と。あの世界や彼女たちの心情、また全体を通して俯瞰した場合の演出・物語、さらには第1話単体をみても、”浮いてる”ぐらいのここのカメラは、そういう解釈が可能でしょう。2話以降、このようにカメラを演出的に機能させることで物語を強引に生み出すことがまず殆ど無く、むしろパエリアの話や幸せ願う彼方からや修学旅行など、単純に物語的な意味で(他とのコントラストを利用して)、視聴者にとっての物語を作り出していたところなども、この解釈を補強できるところでしょう。むしろカメラの演出的機能は、ネタとして使われる、つまりカメラがネタ化していき、ただただ淡々とした描出にネタをコントラストとして与えることに終始した点が、かえって、第1話でのここのカメラの動きを”浮いてるもの”にしているし、またそのようなカメラの使い方が、上手い具合に主体を殺していて(回収させないようにしていて)、それが本作品の魅力のひとつにもなっていたのではないでしょうか(キャラクターの独り立ちや、ニコニコ動画などのMADや、「聖地」がこれほど盛り上がることなど、主体が空虚だったからこそ、視聴者が補えるからこそ、そのような作品から離れた場所でのユーザーの”自主的な”盛り上がりが可能だったということもできるでしょう(それがどのくらい正しいかはともかくとして))。
今冷静に考えると、『らき☆すた』第1話、あれがテーマであるとは言い難いし、あそこでかがみなりこなたなりが他の場面・会話と隔すような「大きなショックを受けた」とも言い難い――少なくとも、例えばもしここでカメラの動きが”なかったら”、これがテーマ、これが第1話の一番の注目点と”なっただろうか”という疑問は残る――。そうであるのに、それら(心情や物語や演出)を参照にして、”そういう解釈”が全く出てこなかったところが。あのたった一つのカメラの動きで、「あれがテーマ」で「キャラクターの心象を表している」みたいな解釈に(わたし含め)陥ってしまったことが、逆説的に、カメラがいかに主体を回収するか、ということを示しているともいえるでしょう。


「じゃあこの表現は誰の主観なんだ」「この表現の主体はどこにあるのか」の答えを、つまり、で<カメラ>すると。その<カメラ>が、果たして監督や演出さんなどの作り手に回収しきれるのか、または単純にカメラが映した『その世界』(ニアイコールでテクスト)という概念に回収しきれるのか。いずれにせよ、力技でゴリ押しでもしない限り、(少なくとも視聴者にとっては)回収しきれない部分が依然存在するというのは明らかで、その間隙を突くような形で、わたしがひとつ前の記事に記したような楽しみ方もまた、存在しうるということです。