CLANNAD AFTER STORY 第15話 だいいちいんしょう

不可能性について考えている。アニメ視聴の感想を文字にて書き記すことの不可能性だ。ああ、もちろん、つねに不可能だ。そんなことは知っている。「見たとき」の自分の感情や思考や心象を「いま」の自分が「知る」ことすら不可能なのに、文字に「書き」記すなどまったくもって馬鹿げたレベルの不可能さだ。ただ、そんなことは識っている。問題はそれではない。「識っている」のだから、それの対処の仕方、不可能性を逆手にとった(あるいは慮った)自己言及の有効活用の仕方くらい知っている。問題は、むしろそこだ。――つまり、この『CLANNAD AFTER STORY』というアニメを観た感想を、その時のわたしの思考を、感情を、心象を。文章にするのが怖いのだ。わたしは『CLANNAD AFTER STORY』を見たわたしを識りたくないのだ。こんなものは有効利用の仕様がない。……いや、したくない。怖い。文章にするのが怖い。それは確実に隠されていた宝を剥き出しにする。見たくないのだ。知りたくないのだ。だって書けることなど一つだ。全てはそこからはじまる。だが言おう。記そう。『CLANNAD AFTER STORY』を見たわたしの感情は、思考は、心象は、「死にたい」、その一言だ。ああ、なんで自分は『CLANNAD AFTER STORY』を見てそんなことを思うのか、なんで『CLANNAD AFTER STORY』を見るとそんなことを自分は思ってしまうのか、もう、考えたくもねえ。
CLANNADは人生」というのは、「人生はCLANNAD」ということだ。人の欲望は幻想に規定される。その幻想の位置にCLANNADという虚構が埋まっただけの話だ。
たまにある「○○という小説・マンガを読んで××という職業を目指しました」と全く同じだ。わたしが「どう欲望すればよいか」を、幻想が規定するのだ。幻想に欲望を規定されるのは、誰だってそうだろう。極論言えば、「将来の自分」「自分が何になりたいか」なんてものは、想像という幻想を通して欲望仕立てられる。有名人に憧れて……なんてのは正にそれだ。一部の会社や学校でやらされる「キャリア設計」みたいなのが良い例だ。5年後の自分はどうなっているか、10年後の自分はどうなっているか、それを論理付けて因果付けて記述させられるアレだ。あれは将来の目標を立ててそれに向けて頑張っていきましょうなんて生易しいものでは終わらない。漠然とした「将来の自分」という像を無理矢理言語化させる作業なのだ。自分の可能性という漠然としたものを言語化することにより、未だ形を成していない欲望を形付ける(象徴的な場所を与える)、つまり「お前はこれを欲望しろ」と先んじて規定するという意味も持つのだ(もちろんこれは、会社という<他者>が審級に立っているからこそ意味を成す)。
そこで欲望が生まれるのではない。はじめからある、「どうやって昇華したらいいのか分からない」状態の欲望が、それにより形付けられるのだ。たとえば、これ(http://anond.hatelabo.jp/20090105153514)を字義通りに受け止めるとしたら、例示として挙げられるだろう。まるでマンガとかアニメとかみたいな恋愛がしたいというのは、マンガとかアニメをみてはじめて「恋愛したい」という欲望が生まれたのではない。マンガとかアニメをみて「こういう恋愛したい」というように欲望が形付けられたのだ。つまり、「私の恋愛欲はどうやったら満たされるのか/どういう風に『恋愛』すればよいのか」という疑問に、マンガとかアニメという幻想が答えたのだ。
マンガ・アニメ・ゲームの影響で犯罪、というのもこの方向からも語られるべきであろう。それが教えたのは「満たし方/やり方」である。マンガ・アニメ・ゲームを読んだ・見た・遊んだことで欲望が生まれるのではない。はじめからあった欲望を、どうやって昇華させたらよいかを教えたにすぎない。現実は虚構を模倣するのではない、虚構の「やり方」を真似するだけなのだ。性善説主義者でもない限り、その可能性も語られるべきであろう。たとえばだ、マンガ・アニメ・ゲームが無かったら、それと全く同じ行動は起きなかったかもしれないが、しかし、どうして、もっと酷いことが起きたかもしれないと考えられない理由は、そこにあるだろうか。
CLANNADは人生」というのは、「人生はCLANNAD」ということだ。人生の「満たし方/やり方」として、つまり欲望を形作る虚構としてCLANNADが作用してしまった人間が発する言葉だ。この言葉があれほど叩かれた理由はそこにしか”ありえない”。そうでないというならばDS版ドラクエ5のCMをもっと叩くべきだ。CLANNADは本当に人生を描いていたからこそ(そして、以前(一月前くらいの記事)にも書いたように、わざわざ「欲望を形作りやすい」流れだったからこそ)、2chの彼はDisられたのだ。「”真に受けられる虚構を真に受けて”、こいつ恥ずい」といった反応なのだ。
さて、そういうわたしは、2chの彼より遥か以前から「CLANNADは人生」と語ってきた。もちろん「人生はCLANNAD」的な意味でだ。もうちょっとオブラートに包んで言うと、わたしはCLANNADを見て(恐らく)はじめて、結婚したいと思った。漠然とした欲望に形を付けられた。つまりはそういうことだ。別に、幻想を全てトレースしようというわけではない。ただ、幻想は欲望の場所を用意してくれるという話だ。
そしてだ。だからわたしは、『CLANNAD AFTER STORY』を見ると死にたくなるのだ。たぶん不可能性に触れているのだろう。これは映像だということが大きい。これはアニメであるというのが大きい。非常に大きい。ゲームのCLANNADを再プレイしても……あるいは漫画版などの他メディアに触れても、こんな気持ちは抱かない。
どうしてか。正確なところは分からない。てゆうか分かりたいと思わない。今はこの気持ちを大きく楽しみたいからだ。つまり享楽だ。そんなことをわざわざ書き記しているこの文章もまた、享楽を生みまくりだ。
いや、どうしてか。敢えてというか頑張ってもうちょっと真面目に考えてみよう。「分離」ではないだろうか。
……ああ、うん、一行で結論が出てしまったw


ええっとそうですね、『CLANNAD AFTER STORY』15話の感想でしたよね。もうね、よくかつては「泣く」「泣いた」とか使ってましたけどね、ここまで来るとその言葉が何の特質も示していなくてむしろ陳腐に見えてしまうから恐ろしいです。下品に言うと「泣きのバーゲンセール」、上品に言うと「相対化」。もはやCLANNADに対して「泣き」なんて、感情を示す語句というよりただ行動を示すだけの語句になってしまってる感です。うん、そりゃCLAアフなら泣くだろ、重要なのはどうして泣いたかだ、という疑問がいい加減前面に押し出されてきている。だからもう、より、『CLANNAD AFTER STORY』の感想を書くのが不可能になってくる。ああ、わたしはもちろん泣いてるよ。つうかずっとだよ。開始3秒の時点くらいから終了5秒後くらいまでずっと泣いてるよ。物理的な意味で死ぬよ。
あるいは「今回も良かった」と一言書いて、圧倒されて平伏しましたと書いて終わらせるべきなんでしょうか。わたしの感想とか、もう回を追う毎にどんどんワケ分からないモノになっていくし。脈絡ないし。てゆうか感想じゃないよコレw
今回は朋也のモノローグが豊富で、かなり朋也に焦点をあてていて、あと朋也くんの横顔が妙に多くて、あと朋也と渚が直に触りあってるのってラストの名前のとこあたり除くと殆どないっぽくて、その辺が気になりましたね。あとでなんか考えるかもしれません。真面目な感想とか、最近まったく書いてないし。そんな感じです。おわり。