空を見上げる少女の瞳に映る世界 第3話 だいいちいんしょ

どうも分かんないなぁと保留してたらいつの間にか世間様じゃもう第4話が放映している時期になってしまいました。
ひとまず、ここで主に描かれた(日の目を見た)のは、大別すると【天上界―下界】の問題、【ムント―ユメミ】の問題(ただしこの時点では【天上界―下界】の問題とニアイコール)、【天上界内】の問題(【ムント】の問題とニアイコール)、【ユメミ】の問題(ユメミ―ムント、ユメミ―天上界、など、全て包括して)、そして【カズヤ―スズメ】の問題。いや他にもイチコとか目が見えなかった人とかグンタールとかガスとか色々あるけれど、そこまで焦点当ってないし細分化してもあれなので、多少の恣意性を残しつつもこのあたりで腑分けってみる。
全部がですね、『普通じゃないけど思ったとおり』だと(それに近いと)思うんですよ。
たとえば、【カズヤ―スズメ】。あの川を二人で渡る行為――それはもちろん、かつての入水自殺との対比(乗り越え)、川という場が持つ、彼岸と此岸という境界としての性質、それを無茶に乗り越えるということ、そういう含みが視えるのですけど、しかし逆にそれは含みではなく本質なんじゃないか、つまりそれこそが狙いなんじゃないかと思うのです。前回(第2話)で、スズメが「明日カズヤと結婚する」と言っていて、カズヤも同じ様なこと言っていて、つまり二人は結婚する、結婚したい、でも実際問題中学生なんだから結婚できないよね、ではその代償行為として川を渡るという行動を取るのではなく、川を渡るという行為そのものが今の彼らにとっての結婚であった。
と、捉えることもできる、つうかその方が自然なくらい。何でその方が自然かというと、彼らは一言も結婚を現実の結婚と述べていないし、この川を渡る行為を現実の結婚の代わりとも述べていないし、また周りのユメミとかも不自然なくらいにその結婚の中身を聞かなかった(「中学生じゃできなくね?」みたいな当たり前の疑問が無かった)し、「明日結婚する」と言ってその明日になってやったのはこの川を渡る行為だけでそれ以外の何も無かったしありそうな気配すらなかったし、つまり、川を渡ることが目的だったのです。
川といえば、その境界性といえば、ユメミがムントと会った(手を繋いだ)ときの下界での場所は、カズヤ・スズメみたいに川の中を渡るのではなく、橋の上、丁度橋のど真ん中でした。それは【カズヤ―スズメ】が不可能を可能にするかのように強引に道なき道を突き進んだのとは対称的に、道ある道を進んでのこと、つまりユメミ側はある程度の約束性・手続き性を履修しつつのことでもありました。つまり正統的だということです。ただし、橋の丁度真ん中が結節点で、その橋は渡らなかったし渡れなかったし渡る必要がなかったという点からすると――まあそれ以前にストーリー的に――、ここではその境界を越えることではなく、境界に触れること、その意思を持つことが重要で、それを行為にすることが重要だということでしょう。この境界的な壁は、第2話での責任、大人どうこう議論にも繋がっているでしょう。それはカズヤとスズメにも同定できて。カズヤとスズメは「不可能を可能にした」からこそ、社会的には失敗でも象徴的には仮構的に成功だったのです。いや大人は局外者なので届きようがないリアルなのが今の所の本作品という感じでして、その「届きようのないところ」をどう描くのか・そこにどう接触するのかが今のところの本作品(つまりMUNTO1)かなぁと思うので、まさに、これで、究極的に触れていると言えるでしょう。
とまれ、それより先のことに関しては2以降に続く……んじゃないかなあ、と期待というか予想を抱いております。
川とか、あるいは雨に濡れた路面とかが、空を綺麗に映し込んでいるのと同じ様に、遠くのものと近くのもの――あるいは、本来届き得ないものと既に届いている(足をつける地となっている)もの、その境界はそれこそ薄皮一枚に見えて、実は悠久の隔たりがある。「ユメミの空だ」というスズメのセリフが、恐ろしく象徴的。あれは、ユメミにとって当たり前の空で、みんなと共有できなかった空であったのですが、それの顕現は、天上界の浮島がみんなに見えるようになったのは、決してみんなとそれが共有できたというわけではなく――ただ一瞬だけ、その隔たりの向こう側を覗くことができたというだけで――「ユメミの空だ」という言葉通り、それはユメミだけのもので、わたしの空じゃないし、みんなの空でもないし、そもそもユメミ以外には空ですらないのです。
天上界と下界の境界、あるいはカズヤ・スズメにとっての彼岸と此岸、ユメミとムントの間、目が見えなかった人がちょろっと仰っていた「過去」の天上界の負債に向き合うムント、そこにある時間と空間の境界とそこに対する接点が、『普通じゃないけど思ったとおり』、つまり、普通的な意味、社会的な意味では代償行為・代替行為と捉えられるようなものなのかもしれないけれども、彼ら自身からすれば、それこそが目的、あるいは今の限界を先に見定めてからの行為、つまり代償行為でも代替行為でもない思ったとおりのものとなっているのです。あるいは境界の限界性と述べた方がよいのかもしれません。
ということで、今回は以上です。