CLANNAD AFTER STORY 17話 第一印象

特にありません。


結局「特にない」かよてめーって感じですけど、本当もう言葉にしようがないのでどうしようもない。言葉にしてどうする。知ってどうする。作品について何かを語るのは概ねふたつの方向性があると僕は思っていて、ひとつは「自分にかこつけて作品を語る」、つまり作品・作品受容に内在・潜在しているものを語るという程度差こそあれ作品を見る際に誰にでも通低する・あるいは通低しえる部分を語るものと、もうひとつは「作品にかこつけて自分を語る」、つまり俺の感情や俺の理解を勝手に語るというもの。そのふたつの方向性というか極があると僕は思っていて、そして僕は圧倒的に後者でして、いやもう作品自体がどうとかみんなにとってはどうかとか地平の彼方に追いやられていて、知りたいことはとにかく僕は何でこれで感動したり面白がったりしているのかということで、それは要は勝手に感動したり面白がってる自分が許せないということで、そして語りたいことがあるとすればそれを見つけ出す手段の一つとしてという面プラスある意味僕自身に対し語るというようなスタンスで、つまりごめんね、毎週毎週駄文なんだぜこれ。――で、そうであるからこそ知りたくない。いやもうこんだけ感動したり涙流したり衝撃受けたり面白がったり笑ったり人生言い出しちゃう作品をさ、咀嚼して考えて分析して解釈して、僕のそれらの感情を、ただ絵と音の組み合わせの作用によるものだとか、もしも明らかにできちゃったら、それに耐えられなくなってしまう。じゃあお前は何でその絵と音の組み合わせにそんだけ感情を動かされるのかというとこに行き着いて、その答えとか知ったらもうやべーよ、死ぬよ。いやこれを書いてることから明らかなようにおおよそ知ってるんですけど、なんとか知らないフリをしています。
だからもう、今週もまた書くことないです。正確には「書くことがない」ということ以外に書くことがないです。何も書かないのはマズいんです。書くことなくても「書くことがない」と書いておかないと勝手に張り詰められてしまいます。


といいつつも少しだけ考えると、視聴者の視座がもの凄くいい感じだなぁと思わざるを得ない。朋也くんにも汐にも他の誰かにも同着しきれない。カメラとかモノローグとかでもですね、あと音楽とか――今週は僕は音楽に凄い救われました。例えばBパート最初の方、汐と朋也が見詰め合うところとか、もう見てる僕は緊迫して死にそうだったのですが、そこで賑やかな音楽が挿入されたじゃないですか。あれが無かったらもうめっちゃグサリときてたんですよ。音楽のお陰で非常に緩和されたら。重ねて言うと、作中の彼らが聞き取れるはずのない音楽(サウンドトラック)のお陰で、とても安心して見れた。朋也の言葉や態度を受け取る汐の心境がグサリと自分に来ることも、汐の言葉や態度を受け取る朋也の心境がグサリと自分に来ることもと、そんな言葉や態度を取ってしまう彼らの心境がグサリと、直裁に自分の元に来ることを、回避できた。音楽のお陰で(無かったのが挿入されたお陰で)僕が今居るところはどこかという視座が一端明らかにできた感じです。逆に言うと、グサリとさせてくれなかったとも言える。印象で述べてるし、ここからも印象で述べちゃうんですが、やはり視聴者にとって朋也くんが一番近いながらも、朋也くんになりきれないようにできている、そんな感じがします。まあ僕がそんな感じに見たいだけなのかもしれませんけど。この「近いけれど違う」という微妙な隔たりが重要でして、そこが微妙だからこそ、届きそうで見方を変えればもう届いてるようなものでもあるのだけれど究極的にはどうしても届き得ないものになっていて、それが余計に胸を締め付ける。これはもう、アニメだから。たぶん。原作にこういうものはこういう形でここまでの強度では、無かった。


それはそうと、来週か、再来週かもしれませんが、僕がCLANNAD第一期放映前からずっと待ち望んでいたところに到達すると思います。つまりマジ死ぬってことさ……!
ちなみにこうやって煽ってもまるで問題がないくらいに、すごい。はず。今日はこういうことを書けていますが、来週はもうムリかもしれません。むしろ生き残ることができるか? くらいの激しさです。そして何だかそれが楽しみでならない。嬉しくてたまらない。死ぬ死ぬ言ってるけど、僕はそいつのお陰で明日からも生きていけるんだ。あーもうなんつうかマジでですね、京アニには感謝の気持ちが尽きないよ。Keyにも。まだちょっと早いけど言っておこう。本当ありがとう、こんな作品を作ってくれて。