まりあ†ほりっく 第5話と第6話 だいいちいんしょう

第5話と第6話、と記事タイトルには書きましたが、ただ一緒の場所に書いているという以上でも以下でもないです。


うーん、何度か書き直したのですがダメですね、全然一般的な感じになりません。たぶん、非常に個人的な話。



かなこに生じるいじめや軋轢や重圧や抑圧や疎外すらも快楽として私に繋がる。そのような<感覚>。
かなこ自身がそれらを楽しんでいる、というか”楽しめる”というのは、先に語られた「美少女にいじめられて喜んでいる」「美少女に足蹴にされて喜んでいる」からも、ある程度いえるでしょう。実際にどうかはともかく。少なくとも「楽しめる」という、それを自発的に「楽しむ」という、下地はある。このアニメの表現・演出が、それに加速的だとも、恐らくいえるでしょう。
その「楽しめる」。
その「楽しめる」機能を介在し、わたしの目に映るかなこは、もはや「人ではなく」――いや、言いすぎた、「半分だけ人ではなく」。まるで私の(感覚面の)知覚器官と化しているかのよう。私の視覚・聴覚領域における<感覚>(知覚と明確に分離した感情的部分の意味で)の代わりであり媒介者かのようです。
抽象的に言えば。女の子として生まれながらも女の子が好きで女子高に通って女の子達と仲良くなったり問題が起こったりしながらも前向きでしかし微妙に倒錯的にずれているそんな宮前かなこに”なれなかった”私の代わりに、宮前かなこがあそこで生活している。
しかもなぜだろうか、そんなに強く投影的でありながら非常に健全。かなこを自分だとは思わないし、かなこになりたいとも思わないし、かなこになれるともなろうとも思わない。”なれなかった”と書いたとおり、既に過去のものとしてある――真の意味で「代わり」な感覚です。
やはりこのアニメの表現なり演出なりが何かの核となっているのではないかなぁとか思われる。それがあるから、僕の心を打てているのだと思われる。けれどそれが何かはさっぱり分からない。つか、分かってしまったら、この楽しみが消えてしまう。――ああ、僕は毎週毎週、CLAアフの感想で「書けない」どころか「考えたくない」言ってるけど、それはこういうことでもあるのかもしれません。楽しみをもたらす核を知ってしまって、まだそれを楽しめるか。

権威の可愛らしいヴェールが、その心地よさを加速させる。寮長先生はゴッドという二つ名がそのまんますぎるほど示唆的であるように、この作品における最大の絶対権威者でもあるでしょう。あまり使いたくない言葉を使用すると<父性>の体現者たりえているのですが、それがあのような、ものすごくあのような、可愛い見た目とかわいい声で、しかし両方とも裏に何かを隠していそうな雰囲気を感じさせるもので、どこにでも出没して何でもこなして(こなしそうで)、いわゆる底が知れないとでもいうべき存在で、物語世界から半歩抜けたメタ的な部分も匂わせつつで、しかしだ、しかし可愛い。もう一人の――というか、主に宮前かなこにとってだけの権威者、鞠也もまた、かなこ的には可愛い。つまり、結論を急ごう。要は、全面的絶対的一点の曇りなくではないですが、しかし要は、「この人になら支配されてもいい」のです。かなこ的には、そして私的にも。だって可愛いのだぜ? どうせ支配されるなら、可愛い人のが、いいじゃない。



ここまでは、5話を見たときの印象を言葉にしたもの。……あれ、今気付いたんだけど、これって、というかいつも僕が「いんしょう」って書いてる印象って印象じゃなくて心象じゃない。とまれ、それは措いておいて。
第6話。
ぐらん、ときた。
視界が揺らぐような衝撃を受けた。というか、あることに気付いた。
鞠也って男じゃん。
いえいえハナからそうなのですがね、どうも迂遠に隠蔽されていたのですよ。僕の中で。見た目は美少女で、性格はまあ確かに悪入ってますが、しかし見た目は美少女で、見た目は美少女なわけです。中身は男ですけど、見た目は美少女なわけです。かなこさん的にもそれは同じなわけです。かなこさんの感覚的にもそうであるわけです。ただ一点、触る――「接触」の瞬間にのみ、鞠也は美少女から男に成ってしまうわけです。かなこさん的には。
しかし僕としてはその触覚は共有できないわけです。そこで前面化されているのは蕁麻疹という肉体的嫌悪感であって、「男だー」という心理的嫌悪感は抑えられていたわけです。そもそも接触の時しか性別に由来する嫌悪感が生じない以上、心理的嫌悪感は抑えられているわけです。鞠也の行動なども、別に男らしいそれというわけではなかったわけですし、その接触を除けば、見た目美少女なわけです。見た目美少女な男、なわけです。
それがあの、妹さんの登場により、それがもろくも、崩れたわけです。僕の中で。一言で言えば。男として、兄としての立場を鞠也が取ってしまったわけです。あの場において。今まで男としての立場などてんで取らなかった鞠也がです。かなこと茉莉花以外、誰も鞠也を男だと知らず、そして鞠也も男という立場には立っていなかったのに、ここでついぞ現実が明かされてしまったわけです。かなこでいう「接触」と同じ様な「接触」が僕にもあったわけです。隠蔽されていたのではなく麻痺していたのです。そこではじめて知ったわけです。鞠也が本当に男だということが、逃れようもなく知ったわけです。かなこの肉体的接触と同じレベルの、見た目が美少女とかそんなの関係ない、現実的なものとそこではじめて接触してしまったわけです。
ですから、ぐらんときた。
何が支配されたいだ、俺はアホじゃねえか、だって男だぜ、男という立場を取りえるし取るものなんだぜ。可愛いなどは見た目のレベルの話で、見た目のレベルの意味だったんだ。驚異的に裏はある。
そしてぐらんときつつも、ある種の嬉しさも感じました。現実に触れさせてくれる。わたしがこの作品をこのような仕方で楽しんでいるのは、わたしのある種の性癖的なものが絡むであろうことは確かでしょう。めっちゃ個人的体験。でもだからこそ、そこに触れることが出来ることに嬉しさも感じて……ああ、うん、どんどん個人的体験に落ちていくよねー、と言わざるをえないのですが。
ということで、今日はここまで。