エロゲの画面、箱庭空間、日付表示

エロゲの画面について考えていた。「普通の」「ノーマルの」とでもいうべきアドベンチャーやノベルゲーム(Keyとか思いねえ)の、一枚絵ではない、通常の――プレイ時間の大半を占める――背景があって、キャラクターの立ち絵があって、テキストウインドウがあって、という形式の画面。
はたしてこれは一体何なのだろうか。
これが「実際的」か、「写実的」か、という観点から考えると、恐らくそうではないと思われる。エロゲで描かれている世界があるとして、そこの住人がああいう風に動いているわけではない、というのは、その逆(実際にああ動いてる)と考えるよりは理に適っているでしょう。まばたきしないし口動かさずに喋るしみんなこっち向いてるし殆ど動かないし動いても現実の人間とかけ離れた少し奇妙なものなんだけど、それがエロゲ世界の住人なのです、というのは、マンガ世界では連続した動きは存在しないし、アニメ世界で(例えばらき☆すたとかひだまりスケッチとかで)記号的に描かれているモブは本当にああいう姿格好なんだぜ、と言うくらい逸脱している。ということは、ある意味記号的ではある。
ただしある点においてそういう考え方もできうるでしょう。「カメラの眼」的な考え方。エロゲの画面が、非常に制約に嵌っているカメラを通しての結果だとして考えれば。エロゲの世界でも私たちの現実と同じような形で運動が行われていて、みんなもっと滑らかに艶やかに色んな部分が動くし、世界も一枚絵の背景ではなく当然広がりのある立体的世界として在るんだけど、それを僕らが知覚しようとすると、この特殊なエロゲカメラというフィルターを通さなくてはいけなくて、それは”そのままの姿”を映し取ってくれるのではなく、僕らが見るエロゲのように、背景は閉塞的で非流動的で、キャラクターは映像ではなく絵としてで、非常に断片的にしか映してくれない。ただしテキストとして、文章が、色々なところを描出してくれる。
あの世界を覗くには、わたしたちは、ああいう形でしか覗けない。あの世界自体がああいう形で存在するわけではないが、しかしわたしたちはああいう形でしか視れないわけであり、それはある意味では、わたしたちにとってああいう形でしか実際には存在しない、ともいえる。
「第四の壁」が、少し利用できるかもしれない。ここでは、信憑の態度ではなく、字面に近い物理的な意味で。描かれているものの奥、左側、右側、その限界点(認識可能点)を<壁>として考えると、わたしたちが居るのは唯一手前側に空いた(そして空いているからこそわたしたちはそれを視れる)壁の空白地点、つまり「第四の壁」の直前である――もしくはわたしたち自身がそれである。エロゲの空間は、ある種の箱庭空間的で、その意味ではあの表象は壁に閉ざされた小世界であるともいえるかもしれない。背景においては特に。交換可能性の高さと、その空間的閉塞さと、それが非可変的であるということ。エロゲの背景はまず殆ど動かない。もちろん動くゲームもあるだろうけれど、今題材にしている対象では、車は走らず、雲は流れず、クラスメイトは止まったままで、信号機の点滅すら起こらない。その意味で背景は、真の意味で背景といえる。背景が生者ではなく「停まっている者」として、真の意味で「背景化」している。
背景に、基本的に変化はなく、もしあるとしても、それは流動的で連続的な運動はなくて、ただ「背景に変化が起きた」「背景が変わった」という瞬間的な入れ替わりとなる。
空間的閉塞性。背景に描かれている道の先の背景に描かれていない部分を想像することはできるが、しかし在り得る実感として想像できるだろうか。というか、”わざわざ想像しないと生まれない”んじゃないでしょうか。この道の先には当然何かがあるはずで、そこですんと世界が終わってしまっているわけはないんだけど、でも、何があるか想像しないと想像できない――つまりですね、絶対に描かれないことを僕らは知ってるのです。言い換えると、絶対にそこには辿り着けないことを僕らは知っている。しかしどんだけ初歩的なところからスタートしてるんだ自分……。 背景の、いわゆる素材というものが限られていることを知っている以上、そこに無いものが確認できないことも知っている。そこには何も無いのではなく、そこには決して辿り着けないということです。例えば鹿之助(キラ☆キラ)の家から数件離れたところには実は大豪邸があるかもしれないし、石油化学コンビナートがあるかもしれないし、セブンイレブンがあるかもしれないし、ただ民家が軒を連ねるだけかもしれないけれども、それを確認することはできない。そこに辿り着くことは絶対にできない。そういう意味での、空間的閉塞性。極論、プレイヤーにとっては、そこに無いものは本当に無くても、あっても、何があっても何がなくても、(言明されない限り/そして言明されないので)同じといえる状態になっている。描かれている背景、それしかない。そして動きの無さから、その「真の意味での背景」は、それを確認する希望、そこに辿り着ける希望はもはや絶たれている。そういう点で「第四の壁」、物理的な意味での、認識的意味での壁、つまりある種の箱庭空間とそこは化しているともいえる。
それを交換可能性が重奏していく。例えば、学校の教室の背景絵というのは、大抵、「クラスメイトが居る」と「誰も居ない」の2パターンくらいしかない。そこにプラスで夕暮れ、あるいは夜などがある。その交換可能性はそれを箱庭的な舞台装置として後景にしていくが、同時に個別性を喪いまさに装置然となっていく。もう少し実例的にいきましょう。例えば『CLANNAD』で、通学路の坂の下の背景の絵がありますよね。それを背景に渚が学校に行くのを躊躇したり、「カツサンド」言ってたり、朋也を待ってたり、朋也と付き合って二人で坂を登るようになっていたり、あるいは智代とそこで会話したり、春原がアホなこと言ってるのを見たり聞いたり、ことみや杏たちと帰ったり、とにかく沢山のことがあるのですが、背景自体は、夕暮れ・夜・桜が咲いてるか否かなどで、ほんの数パターンしかなくて、「同じ」だったりもするのです。それは立ち絵に関しても、やはりパターン数は限られていますから、全く同じのがあるわけです。つまり、渚が「カツサンド」言ってるところと、もっと別の場面とが、テキストウインドウを消してしまえば視覚的には「全く同じ」だったりするのです。背景、そしてキャラ絵の交換可能性……いえ、複製可能性というべきか、それがコンテクストを無視してしまえば、在る。いや、コンテクストを無視した程度で、生じてしまう。現実でしたら、毎日同じ道を通って毎日同じ場所に座って毎日同じ方向を眺めてみても、眼球に、完全に同じものは映しえない。視野なり視力なり、あるいは見る位置や角度がほんの僅かばかりでも変化する、あるいは対象が、うぶげひとすじ程度の傷や汚れであろうとも、多少なりとも変化はする。しかしエロゲの背景にそれはない。朝、昼、夕方、夜、他に人が居るか居ないか、天候、季節……それらにより何パターンかはあるけれど、しかしそれは無限のパターンではなく、ほぼ確実に、”同じもの”が存在しうる。しかもなんと、人(キャラクター)を含めても同じだったりもする。あの感動的な箇所も、あの萌える箇所も、あの熱くなる箇所も、実は、視覚の次元では、他の箇所と全く同一なものがあったりする。ある種の同一性、相対性、そして等価性がそこに潜在しうる。もちろん、現実にテキストウインドウを手で隠してプレイするスタイルも、一回ごとにわざわざスペースキーを押すプレイスタイルも、とても一般的とはいえないがゆえに、つまり、常にテキストがあるゆえに、これは視覚レベルでも達成できていない机上の空論。しかし潜在的ではある。そしてそれは同時に、テキストの優位性を高めうるものでもある、と思われる。
さて、これ以上はまた改めて考えようと思います。だって長大すぎる巨獣なんですもの、そんなささっと考えてぱぱっと解が廻るはずがない。
しかしこれらの点から「日付表示」(画面左上とかに日付が出てるあれ)を考えると、視覚的な意味で、また認識的な意味でも、個別性・固有性を打ち付ける投錨になりえている面もあるのかもしれない。画面を見る限りでは、それは5月17日でも5月18日でも、実際に背景が変わることはない。しかし現実にこのゲームの中では5月17日ではなく5月18日だというならば、それはやはり5月17日とは別の5月18日における空間を対象としたものであり、それを標榜する意味でも、日付表示に意味があるのかもしれない。わたしたちがついつい忘れてしまう、そして実はついつい程度で忘れてしまうほどにどうでもいい日にちを、時間を、昨日ではないし明日でもない今日なんだよという事実を、そこに投錨するような。