涼宮ハルヒちゃんの憂鬱 第1話

Youtubeでアニメってなんかすごいなぁ……。
本編のお話し。
そもそも『ハルヒちゃん』自体が『涼宮ハルヒ』の擬装飾なのですが、その第1話が、「着ぐるみ」、かつ「夢」と、二重で擬装化しているのが面白いですね。そもそもの部分も含めれば三重になります。この多重化により、中心(そもそもの部分)が相対化され、ちゃん付けでない『涼宮ハルヒ』に親しんできた者にも受け入れやすい作りになったといえるのではないでしょうか。そこに在る差異を、見た目的には着ぐるみに、他の部分では夢に回収することができる、つまり『涼宮ハルヒ』とは別世界の『ハルヒちゃん』世界だというのを、いきなり視聴者に押し付けるのではなく、そこを通して、軽く回避しつつ映し出す。冒頭の天から降りてくるカメラと衝突、そしてカメラの破損もまた、そういう点での回避性(なにせここで”カメラが壊れてしまった”のですから、いかなる直裁も回避される可能性が内在する)を示唆するといえばするんじゃないでしょうか。……いえ、別の読みも全然できると思うので、なんか曖昧なニュアンスなんですけど。
昨日の Nice boat. について。
ただの話題作り以外に、何かしらの(メタフィクション的な)搦め手がありえるかなーと思ってるのですがどうでしょうかねー。ハルヒだし。設定的にはワイルドカードだし。意味付けようと思ったらいくらでも意味づける方向に持っていけるので、実際に持っていくんじゃないかなーとかね、何の根拠も無いけれど思ってます。てか、これに関する批判(といっても、わたしが見た限りですが)って、視聴者を楽しませなかった(それでいて作り手側が楽しんでいるかのように思えてしまった)というのが核を担っていると思うので――細かく言うと(などと述べつつ色々と端折っているのですが)、羨望のメカニズムです。状況証拠的にはアクシデントではなくわざとやっている(延期不可能なテレビアニメではなく延期可能な、変更可能な、少なくとも「Nice boat.」で無理して尺を埋めなくても”よい”Youtubeで「これである」というところから、その想像力は容易に可能でしょう)と思われてしまった今回の現象は、そうであるがゆえに、その裏に、楽しんでいると想定される主体が生じてしまう。羨望は、私が手に入れられないことに対する憤りではなく、他人が楽しんでしまっていることへの憤りです。他人に富が、快楽が行く、それへの憤り。外国の逸話で、魔女が農民に対し、あなたに牛を一頭与えたうえで隣人には牛を二頭与える、もしくは、あなたから牛を一頭奪ったうえで隣人からは牛を二頭奪う、どちらかを選びなさい、と述べたときに、農民は即刻後者を選択する、というのがありますが、謂わばそれ。人は他人だけが享受しているのが嫌だし、それが自分を「疎外(本当は自分もそこに含まれて居るはずなのに除外されてしまっている)」な場合ではさらに、羨望的な嫌悪感が湧く。つまり早い話、わたしも楽しむ権利があるはずだ、わたしにも楽しませろ――今回の過剰なくらいの反感表明は、その表明行為により、本来なら自分に生じるはずだったその快楽を代わりに補填している面もあるのではないでしょうか。つか、怒りを表明する(特に、対象に直にではなく全く関係ない場所で)ことは、大抵失われたものの補填の意味合いも兼ねていると思うのですが。――えっとですね、話それすぎですね、で、ですね、そういう点からも、やはりこの問題は作品内に(物語内に)還ってきてくれるのが一番収まりがいいので、そうなって欲しいなぁというわたしの願望がちょろっと、あるのです。楽しんでいると想定される主体を殺してしまえば、平和的解決になるだろう、と。

あとにょろーんの感想も。
全員同じ顔に吹いたw これも上と同じ様なこと言えそうだけど二度目は喜劇にしかならないので言わない。
以上。