CLANNADと共同体(の極北)、あるいは二つのアフターストーリー

CLANNAD」のネタバレです。AFTER STORYのネタバレすぎます。
原作知らないけどアニメ楽しみにしてるなんて人は絶対見てはダメです!


CLANNADを「町」を中心において翻訳すると、「町」が愛する人を救って、だからこそ町を愛しそこに住む人を愛し(秋生)、町の中の幸せな風景を集めたら(光の玉)、その奥の秘宝たる奇跡に届いた(アフター2周目)、そう並べられるでしょう。これを啓蒙的に読むと、地域・血縁・仲間内、そのような小さな共同体・親密圏を愛しつつなおかつそれを(「町」という単位のように)限定的に拡大的にしていく、”その大事さを説いている”、そんな感じに読めなくもないでしょう。ですけど……こう読めるんですけど、でもそれは、決定的なところが、現実とは違いますよね。そしてその違いこそが、大きな意味を持っていると思うのです。

現実には光の玉なんかないし、やり直しなんかない。他者に優しくしようが博愛的になろうが奇跡なんて待ってないし、仲間内を大事にしたところで奇跡なんて待ってない。
むしろ、現実は岡崎直幸(朋也の親父)の方でしょう。挫折・喪失のあとに奇跡なんてなくて、(昔の仕事仲間や母みたいに)セーフティネットがかろうじてあるだけ。そのセーフティネット(これもまたある種の小さな共同体)は、奇跡は起こさないけれども、そこまでいかないけれど、自分を救ってくれる。助けてくれる。根本原因を取り除いたり、イチからやり直せるなんてことはない、負債も喪失も抱えたままだけれど、それでも救済はある。これは朋也くんの、アフター1周目も同じですね。それに対すると、朋也くんのアフター2周目、渚の死の回避は、その辛さを剥離し奇跡というメルヘン的文脈で昇華してしまっているといえる。その奇跡を、先に記したように、町という(町という単位での)共同体に依拠するものと考えると、これはつまり、その共同体による「助け」の極北を描いてしまっているといえると思うのです。最高の助け・救済は、そもそもの原因・喪失・負債が生じないこと。
つまり、『光の玉(による奇跡)』は何かというと、現実に起こる共同体による救済を、もっと大きな救済――そもそもの喪失を取り払うという奇跡にまで強化して、具現化・具体化してしまったものといえるのではないでしょうか。
根本部分では、現実の共同体による小さな救済も、光の玉の奇跡も、同じ。ただ現実の小さな共同体、セーフティネットではそこに到達しえない。”そこまで救済してくれない”。でも根本的には同じだし、強化しまくればそこに届くかもしれないくらいには潜在的である。実際は届かないけれど、だからこそ奇跡なのだけれど、そうだからこそ、極北――つまり「理想形」の極北なりえる。実際にはそこに届かないのですが、突き当りの究極としては、そこ(そもそもの喪失自体の回避)に至ってしまう。
共同体による救済のありえる可能性の極北を描いているわけです。で、話はぐ〜っと戻りますが、それはありえないわけですよね、わたしたちの現実の中では。死の復活はありえない。それ以前のレベルなら、努力で到達できるかもと期待は持てても、それだけは、ない。
わたしたちに光の玉はない。わたしたちに奇跡なんてない。――CLANNADを共同体の文脈で語るなら、ここです。これは理想像の(理想形の)鏡でありながらも、物理的に無理な領域、その極北のアガルマまで描き出してしまっているのです。
……これだけでは、結局行き着くところは現実的になりきれない絶望や歯がゆさ、あるいはメルヘンなのですが、CLANNADはわたしたちに一つの置き土産を残していってくれました。ふたつのアフターストーリーが分岐する結節点。坂の途中で立ち止まる渚を呼ぶこと/呼ばないこと、ならび2周目以降(3周目以降)に提示される、その選択肢。
なぜそこに選択肢があるのか
「光の玉の奇跡で渚が生き返った/死ななかった」と語られますが、それは正確ではありません。その前に、呼び止めるかどうかの選択肢がある、あの場所に行けたということ(光の玉集めた後の最初は自動的に「呼ぶ」ことになるので、「呼ばない」しか無かった当初から「呼ぶ」ということが生じた光の玉以降のその行為、その選択肢、といった方が正しいかもしれません)こそが、奇跡なのです。2回目以降プレイ時の2周目が示唆するように、なにせ呼ばなければ、渚はアフター1周目と同じく(そしてある意味「現実と同じく」)死ぬのですから。
奇跡の先にも選択肢はあるのです。救済の先にも選択肢はある。というか、選択肢自体が奇跡。選択肢に”また、そしてはじめて行けた”ことが奇跡、そして救済。もし願いを叶えるなら。喪失自体を回避するのなら。受動的なだけでは駄目で、決断しなくてはならない。決定しなければならない。奇跡により機会を与えられても、呼び止めなければ、その先は逃れていってしまう。
対し、現実のわたし達は……アフターの1周目と同じです。その選択肢にすら到達していない。アフター1周目のあの場面、呼ばないと渚が死ぬと分かっていたら、朋也くんはどうしたでしょう? 恐らく渚を呼んだのではないでしょうか。そこに呼ぶという選択は浮かばず、そして気が付いたら、もはや取り返しのつかないことになっていた。自動的に「呼ばない」という選択に辿り着き、まったく知らない間に、大事なものが失われる決定がなされていた。
わたしたちは人生に関わる大事な決断を、いつの間にか知らないうちに(選択肢が出ないままに)してしまっている。
リスク社会における選択などの文脈でよく語られること。情報も圧倒的に足りず、先行きも不透明な中で、いつの間にか、わたしたちは未来の大事な決定を気付いたらしてしまっている”ことになっている”。それは自己責任論にも繋がる話ですね。公平を求めた社会では、因果論的に現実を把握する世界では、当然の帰結でしょう。自己責任論的な、既に決定してしまっているというのは、たとえば。わたしが大学を選ぶとき、そこで4年間どう過ごすかも何を学ぶかも卒業時の景気がどうかも、全て、大学を選んだときに”もう既に”選択していることになっている。目の前の決定が因果的には先々の何かすらも決定していることになってしまっている。
CLANNADに戻って。光の玉を集めたら、ここで渚を呼んでいること。そして次回以降プレイ時は、そこに選択肢があること。これは、逆算すると、実は「1周目のここでも選択肢はあった」、そして「それと気付かず(自動的に)選択していた」ともいえるでしょう。全ては通過している。もう既に選択している。
それに気付かせてくれただけでも、やはり置き土産なのでしょう。光の玉の奇跡は何をもたらしたか。それは渚の復活というよりも、さらにその前に、「既に気付かずしてしまった選択をもう一度やり直すチャンスを与えてくれた」、それがあったのです。それがまずここでの奇跡の現前です。しかしわたしたちの現実にそんな時間旅行はない。奇跡もない。しかし、”選択肢が実はあった”ということは気付かせてくれた。それが置き土産。つまり、わたしたちは常に大事なものを失う選択をそれと気付かずにしている可能性がある、ということです
もちろん、ここではそれが、渚の立ち止まっている背中である、ということが大きな意味を持つ表象となっています。常に、既にしてしまった選択を取り返すことはできない。でも、立ち止まっている背中なら、”わたしたちにすら”それが選択なのだと、気付けるかもしれない。
これは「遠ざかっていく背中」(坂を登っていく朋也&渚という一番最初のCGと、手を繋ぎ歩いていく直幸&子供朋也という一番最後のCGが象徴的なように)と、対になってもいるでしょう。それは”既に”されている、届かない選択。それをどうにかする術はなく――というのは、朋也くんが実証済みでもあるでしょう。アフター1周目の坂道での「呼ばない」、彼がそこに行き着いたのは、彼自身が語るところによると、「俺と出会わなければ渚は死なないで済んだ」という点。しかしその既にされている選択を、心的に別選択をでっちあげても、もちろん、何も解消しない。眼を逸らし続けるだけにしかならない。既になされている選択、既に遠ざかっている背中なのだから。
でも、立ち止まっている背中なら、届くかもしれない。
実はここに選択があったと、気付くかもしれない。



さて、この辺のお話&今まで散逸に書き散らしてきたことは、アニメ終わるころに、「CLANNADはなぜ人生なのか」を解き明かす記事としてまとめる予定です。ひどい自己満足ですので、楽しみにしないで下さいと申し上げておきたいところです。それでは。