CLANNAD AFTER STORY 第18話

クラナドアフターを「余生」と称すのは、ネタとしてはいいと思うんですが、ネタ以外でそう言っちゃうのは大嫌いでしてね。いや、なんか真面目に言ってるのを見かけてしまったので。これはただの言葉遊びで、喚喩は隠喩にならないんですよ。てゆうかね、そもそも「余生」なんて実際には無いんですよ。そんなのは少年期とか青年期とか壮年とかの、外部からの、社会からの、年齢に応じて振り分けられるだけのカテゴライズであって、当の本人にそんなものはない。CLANNAD AFTER STORY は、その名の通り、CLANNADのアフターではあるけど、渚のアフターでも朋也のアフターでも無いわけです。人生のおまけとか続きとか残りとかロスタイムとか、そんな感じの「余」なんてあってたまるかつうの。いや別にあってもいいしあるかもしんないんだけどね、僕が言いたいのはね、そんな感じの「余」ごときで届くものがあってたまるかということ。そんな「余」ごときで何に届くというのだ。「余」で大切なものが守れたり手に入ったりするか、と声を大にして言いたい。生まれてから死ぬまでが人生だ。
今まで散々「泣いた」とかほざいてきたけど、今週は泣かなかった。泣けなかったじゃなくて、泣きたいけど我慢した。泣いていいのはおトイレとパパのお胸の中だけだから…じゃなくて、もっとね、今までと違う段階で観たかったから。それでより真剣になれているのか真面目になれているのか、むしろその逆なのか、わからないけど。とにかく、「余」に繋がりそうなものを排除しようと思ったのです。しかし結果逆にその態度こそが「余」を生じているのかもしれない。感情にまかせたままの視聴姿勢じゃ、大事なものが見えないかもしれない、と思い、感情にまかせないようにしたら、それはそれで、大事なものが見えないかもしれない。うん、要するに袋小路のがんじがらめだ。どうしようとも到達できないじゃないか。ああもう主観も客観も感情も消えろ。物自体を見せろ俺に。


……と、昨日放送終了後に書いて、こんなのうpっても仕方ねえなーと思い、先ほど、もう一度視聴して、つまり珍しく今回は第二印象で、書きます。

三人目の対象

ちょうどBパートあたりからはじまる、朋也と史乃さん(おばあちゃん)の会話。ここでは二人の向き関係が、非常に豊潤で、また優しいものでした。二人きりの会話ですが、お互い終始向き合って、というものではございません。Bパートは、お互い横に並んでいる状態からはじまって、朋也くんが眼を逸らしたり顔を逸らしたり、あるいは史乃さんの方を向いたり、また史乃さんの方も同じようなことをしていたり。ずっとお互いがお互いの方を向いて会話していたわけではありません。目の逸らし、顔の逸らし、体の逸らし。史乃さんが背中を向けながら語ったり、その言葉を朋也はあらぬ方向を向きながら聞いていたり、また朋也も海を眺めながら喋ったり。
これはね……うん、やっぱりね、優しいですよ。こういう風に、お互いをお互いが、”直接だけ”では向き合っていないじゃないですか。その目線や顔や体や態度を見ていると、朋也も史乃さんも、言葉を、相手に直接に届けようとしている”だけではない”と思うのです。直接を回避している。どこかを迂遠に周回している。つまり、ここに居る二人だけで、直裁にだけ会話するのではない、二人だけで完結しているわけではない、ということです。その回避した先、周回する先は、彼らがそうであるからこそ、ここに居ない人。その言葉は、ここには居ない直幸を、朋也の父を、史乃さんの息子を、通している。朋也と史乃さんだけがここに居るから、その二人の問題として語っているのではなく、ここに居ない人のことを思いながら、ここに居ない人に言葉を載せながら、語っているのです。会話の最後、まるで儀式が終わったかのように――「そう思います」「ありがとうございます」という謝辞と、朋也に対してはじめて触れる史乃さん。その接触がまた象徴的なように、朋也にとっては(また視聴者への説明的にも)朋也の手を引く直幸の姿が遠ざかっていくのが象徴的なように、三人目の対象を含める会話が終わり、ここではじめて、ここに居る二人だけが直裁に向き合う体勢になった。ここに居ない人をこんなにも想うこと。だからこれは、とても優しい空間だったと思うのです。

遠ざかる二人の背中

「遠ざかる二人の背中」を視聴者が見せられる、というのが、ひとつの肝でもあると思うのです。そも、一番最初の、坂道を登り始める二人。第一期ラストカット、歩き始める二人。今回の、朋也と直幸の、手を繋いで遠ざかっていく二人(今回のアバン、幻想世界の二人もまた、同じ)。というか、原作的には、「CLANNADは人生」というのは、それの所為で強固になってしまったと言える、つうか僕は云う(2ヶ月前くらいに書いた「CLANNADは人生」の記事を参照)。あれ、ということは、まだ現時点では触れない方がいいのかもしんない……。
彼らは、(見た目レベルで)わたしたちから離れていくわけですが、だからって彼らの人生が終わるわけでも何でもなくて、わたしたちから離れたところで別に余生でも何でもなくて、「余」じゃなくて、普通に続いていくんです。では取り残されるわたしたちはどうなるのか。それこそが、CLANNADは人生の肝でしょう。でもそれを追い求めるのは正しくない、依存とか仮託とかイデオロギーだ。正しい対処法は、このゲームと同じ。遠ざからない背中に対して、どうするか。声を掛けるのか、それとも、自分から遠ざかってしまうのか。この話題は、次回以降……というか、恐らく最終回への、宿題として、措いておきましょう。

服喪

CLANNAD以前から有名なことだと思いますが、京アニの子供が泣く時は本当にぼろぼろと、とてつもなく大粒の涙を流しますよね。今回の汐を見てわかるように、滝のようなとでもいうべきでしょうか。人間、そこまで涙は出ないし、そこまで涙流さなくても視聴者だって分かるよと言いたくなるくらい。しかし逆にこれは、視聴者だって分かるよを突き放したもの、視聴者からすれば誇張の誇張のさらなる誇張かもしれないけれど、それでも、あるいはだからこそ、そうするべきものでもあるのでしょうか。過剰と紙一重というか、人によっては過剰で受け入れられないくらいかもしれないけれど、でもだからこそ、この過剰さは、彼/彼女の何かを表象しているし、わたしたちの視覚的感覚に強烈に請求できる(受け入れられるかどうかは別として)。
「泣きたくても泣けないことなんて、大きくなったら沢山あるんだから」――これは今話序盤で朋也くんが述べていた台詞です。大人という立場や責任で泣けないときもあれば、見てしまったら泣いてしまうしかないような現実から目を背けて泣けないときもある。しかしそれは決して、涙自体が無くなってしまっている、ということではありませんでした。汐がパパの胸で泣いているときの朋也くん、それは史乃さんとの会話のときの朋也くん。(わたしたちが見れる範囲では)泣き出したりしませんでしたが、涙ぐんではいました。それは涙の量が足りず流れるに至らなかったというより、堪えてたというべきでしょう(カメラ的にも。もしかしたら、カメラが引いた後に彼は本当は泣いていたのかもしれないけれど、それまでは(彼もカメラも)堪えていた)。汐が胸で泣いていた場面なんかは特に。大人という立場や責任で泣けないときもある。ここで彼まで泣いてしまったら、誰が汐の手を引いて歩き出すというのだろう。
アニメでは言及されてたでしょうか。朋也が汐に会いたくなかったこと。というか、顔を見たくなかったこと。言葉では言及されていなかったと思います。ただし前回17話の序盤、早苗さんが朋也のアパートを訪れた際のカメラのせわしなく不安定な動きなどで表現されていました。あまりにも渚に似ている汐のその顔つきから、そんなこと言うまでもないかもしれません。彼は、汐の顔を見たくなく、避け続けてきた理由を、原作でこう語ります。「渚とそっくりな汐の顔を見ると、渚のことを思い出してしまうから」。休むことなく仕事を続け。時間の間断を生じさせないように埋め続け。汐に会わず。渚に纏わる全てを回避し続け。見ないように、見ないようにし続けてきた。なぜかというと、それはとても辛いから。渚のことを思うと――渚のことを、朋也はどう思い出すか。それはもう、彼が汐に「ママは……」と語りかけたときの、この画面が雄弁に語ってくださっています。誰もいない通学路の坂道、誰もいない渚の部屋。思い出すことで、父親の存在を知った先ほどの回想・幻想とは逆。思い出すことで、渚の不在を知ってしまうのです。そこにはもう居ないと、心の中に知らしめられてしまうのです。
こうして、……ついに、朋也くんの中で、渚は死んでしまったのです。肉体的な死という一度目の死に続く、二度目の死。心の中の渚が死んだ。彼にとっての服喪。ここでついに、泣かなかった朋也くんは、涙します。それもちょっとやそっとの涙じゃない、人間そこまで涙が出るかというくらいの、滝のような涙。つまり、京アニにおける、子供のような涙。でも実際そうなのです。ここでの涙は、高校生の頃の、渚とはじめて出会った日からの分全てなのです。心の中に居たあの頃からの渚が、全て居なくなったということに涙している。今の彼だけが泣いているわけではない、渚に出会った日からの全ての彼が今ここで泣いている。象徴的な意味で。今の、大人だから泣かないという彼の涙じゃなくて、大人も立場も全部とっぱらった、彼自身の涙。
そういう意味では、この涙は過剰ではなく、むしろ優しい。これだけぼろぼろと朋也を泣かせてくれてありがとう、と思ってしまいました。ぼろぼろと泣けばその分、彼の心の中の渚が喪われる。それは仕事着を着て、汐と手を繋いで、渚と向き合うにはとても大切なこと。




ということで、今回は終わりでございます。まだまだ語りたいことは沢山あるはずなのですが、そこにはあまりにも到達できません。ただ個人的には、久々にこう観て考えて、考えて観て、満足です。より嬉しくなるし、より好きになった。
ご清聴ありがとうございました。また来週お会いしましょう。