CLANNAD AFTER STORY 第19話「家路」

語られていないものも描かれていないものも、つねに語られて描かれている。
たとえば、だんご大家族のぬいぐるみからする、渚の匂い、ママの匂い。映像で、匂いを”そのまんま”表現するのは不可能でしょう。たぶん。しかし、それに接している彼らから、わたしたちもその匂いを感じることができる。朋也くんが匂いを嗅いだ時の、挿入される渚が居た情景、また彼の表情や動き。汐が「ママの匂い」といったときの、あの笑顔、幸せそうな寝顔。それらが、この匂いがどういう匂いなのかを、何よりも物語っている。わたしたちは、その匂いをじかに知ることはできないけれど、朋也くんや汐を通じてなら、知ることができる。渚の匂いまでをも。


冒頭、営業中の古河パンの入り口に立つ朋也、という絵ですが、すごい久しぶりに見た気がしました。あの狭い店内に、ずらっとパンが陳列してあって、早苗さんがニッコリ微笑んでいるっていう、素朴で暖かい光景。そんで秋生がやいのやいのと騒いでるの。
かつては、毎回のように画面に映っていた光景でした。まだ学生時分の頃なんて、毎話のようにあった。渚を訪ねたり、渚を迎えにきたり、渚と一緒に帰ったり。朋也が古河家に居候するようになってからは、当然のように毎日そこに触れていました。そんな当たり前の場所も、今回のここで、すごく久しぶりに、見た気がしました。

「ただいま」「おかえりなさい」

それがここでのやりとりだったのですが、見てる僕としてもそうでしたよ。ようやくここに戻ってこれた。ただいま。ようやく朋也くんがここに戻ってきてくれた。おかえり。
渚はいないわけで、あの頃と違うのは当たり前なんだけど、でも「ここ」はある。ただいまとおかえりが言えたり言われたりするような場所がある。この後の野球といい夕食といい、また渚の部屋といい、それらは以前にもやったり居たりした場所で、だからこそ、その差異が明らかだからこそ、ここから渚が抜けて汐が加わったことが、痛切に伝わってくるのだけれど、そしてそうだからこそ、かつての朋也くんはそれを避けていたのだけれど、今やもう、そのかつては過ぎ去ったものとしての面影しか残さない。きちんと、渚が居なくなった部屋を「渚が居なくなった後の渚の部屋」として向き合えてるし、自然に、かつて渚が座っていたレジャーシートや団欒の席に、汐が座っていることを受け入れられている。
「ただいま」で「おかえりなさい」なんだけど、やっぱ『かつて』とは違くて、でも違っていても、「ただいま」で「おかえりなさい」であることを受け入れられている。そんなことが、このアバンだけで十全に伝わってきます。


「ただいま」「おかえりなさい」というわけではありませんが、親父との会話の場面は、ある種過去の肯定的な彩りを感じました。窓からの光にだけ頼り、よって、部屋の半分は暗闇に閉ざされている。そこに半身を浸かっている親父は、見たとおり、体の半分以上が陰に隠れて黒く不透明。対し、話しかける朋也(と汐)は、その光に当たる場所から。ああ、もう、見たまんまの比喩。暗闇が絶望とか失意とかの閉ざされた状態と感情を表すのなら、直幸のこの状態は、体の大部分が暗闇に閉ざされてしまっている状態は、まさにそう。たとえば朋也とか、たとえば彼の母とかの、僅かな希望が外から差し込む光として迂遠にあるだけ。
朋也は、この見たまんまの色彩を結び付けちゃうと、暗闇に居る親父を引っ張り出す者として話しかけているように見えるのです。親父を助け出す。また、この暗闇は他の意味もある。ずっと親父と取ってこなかったコミュニケーション、ずっと向き合っていなかった対象。親父との会話ということ自体が、朋也にとってひとつの暗闇でもある(あった)のではないでしょうか。ずっと目を背け続けてきた親父との関係、その暗闇を、どう跳躍するか。つまり、暗闇と向き合っている。
親父との別れ際、朋也の、心配の言葉、気遣いの言葉、言い足りない何かを言いたいような言葉、あの紡ぎ出される言葉の数々と、挿入され続けるフラッシュバックの節々との連関が、とてもいいですね。や、とてもいいというか、CLANNADは全部が全部とてもいいのですけど、ここでそれは、過去を肯定するかのようで、とてもよかった。実際にそうなのかどうかは知らないけど、この連関、現今朋也くんが述べる言葉と、かつて父親が述べた言葉が重なるこの連関は、――というか、こういう風に見せられると。まるで、昔、親父がああ言ったから、今、朋也くんがこう言えている。そんな様に、思えてしまいます。
そもそもが、過去と向き合うこと、それを肯定する――受け入れること。第1期第1話、一番最初の、朋也くんの心情から、渚と別れた際の、朋也くんの心の中(と言っていいのか分からないけど)の、あの情景。それらに、まずは向き合うこと。だから、過去を肯定することは大事だし、そして何より、未来に向かう力になる。
この会話の先で、朋也くんはぶわっと大粒の涙を流しますが、汐の一声で、彼は顔を手で拭い、涙は止まります。それもひと拭いで、一瞬で、まるではじめから泣いていなかったかのように。ここは大げさというか、実際の人間ならありえないですよね。あんなに泣いてたのに、さっと顔を拭ったら、涙は跡形もなく消えている。でも、だからこそ。だからこそ、この表現はありえる。親父と一対一で向き合って、あのような場面になったら、泣いてしまいます。僕だってそんな状況に出くわせたら余裕で泣いてしまいますよ。子供の頃の父の記憶が、無駄でも無意味でもなく、素晴らしいものとして蘇る――つまりこの人が自分を育ててくれたから、今の自分がある、この人の子供でよかったと思えるような瞬間。ここまでの軋轢も、幼い頃の記憶も、今の自分がいまここに居ることに対して、全く無駄ではなく完全に繋がっている。過去の肯定の先に、わたしを肯定している。誰だって泣くよ、そんなの。
でも、泣いてばっかりもいられないのです。親父とサシだったら、いつまでも、子供の頃に戻ったように泣いていたかもしれない。でも、汐がいる。汐の一声で、現実の、今の自分に引き戻される。いつまでも泣いてるわけにはいかない、朋也にはやることがあるし――生きる目的もある。だからもう、ありえないくらいの速度で涙は引いていく。これは、そういう、表現。ならびに、そういう、実際。人間のありえない限界なんて越えてしまうんです。だって、子供を育てるってことがありえないくらい凄くて大変で何より力が要ることだと、朋也は自身と直幸を見て知っているから。
彼の立っている場所は、ちょうど直幸が立っていた場所であり、また早苗さんのセリフから察せられるように、古河夫妻の立っていた場所でもある。けれども、もちろん違う。彼は朋也で、子供は汐だ。でも、違うけど、何もかもが違うというわけではなく、連関がある。繋がっている。そもそも繋がっているからこそ、彼が生まれて、彼が育って、子供が生まれた。
語られても描かれてもいないけれど、フレームの外から内から、色の明暗の狭間から、セリフや描写の繋がりからその隙間から、そういうことが潜在的に生きているかのよう、でした。