「分からない」という「崇高な対象」(CLANNADにおいて)。

CLANNAD AFTER STORY の最終回の感想を見て(主にここを→ http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-2458.html )。
みんななんか、速攻の答えを求めすぎてる感じがします。あるいは、ネット上で感想を「喋ってる」からでしょうか。
原作の時だって、プレイ後すぐに、全部が分かった人なんて殆どいないだろうし、全てを十全に感じられた人だって、殆どいないでしょう。
「これのどこが人生なのか」みたいな感想を(2chまとめですが)見たのですが、それは、あるひとつの事柄を忘れております。「CLANNADは人生」という言葉が出たのは、少なくともそれがネット上で顕在化したのは、ゲーム発売から3年以上経った、2007年のことなんですね。ゲームをラストまでやって、あるいは最終回まで見て、それでポンと、「CLANNADは人生」なんて言葉が出てきたわけではない。そんな感慨が自然とすんなりと湧いたかというと、もちろん湧いた人もそれなりにいらっしゃるだろうけど、恐らくそれほどではない。少なくとも、このように顕在化してはない。結果論的にいえば、謂わば、3年後の時まで、それは潜在化されていた言葉(思考)だったのです。だからこれを見て、すぐに「人生だ」と思う――正しく「そう思える」ほうが、ある意味では、正しくない。事前情報に規律的に引っ張られている面が否定できないでしょう。少なくとも、「CLANNADは人生」と2chで言い出した彼と、ここでの「人生」は、厳密に同じ意味ではない。
パッと見て全てが分かる作品じゃないし、考えれば全てが分かる作品というわけでもない(なんせゲームプレイ後4年以上経つ僕だって、全てが綺麗さっぱり分かるわけじゃない)。なんかよくわからない「しこり」が残る。……もしかしたら、映像作品(アニメ)だと、それを『勢い』みたいな感じで――言葉は悪いけど「勢いで誤魔化してる」みたいな感じで――受け取られてしまったのかもしれません。イメージだからこそ、ダイレクトに響きすぎている。でも、もうちょっと考えれば、そのイメージが「何を区切りに同一性を担保してるか」ということを考えれば、究極的には「CLANNAD」という作品を区切りにしているのであって、だからこそ、今回における不可解さも全体に内在する不可解さに回収されるべきで、もし分からないと述べるのならば、究極的には、「最後が分からない」ではなく、「(京アニCLANNADが分からない」と述べるべきでしょう。まあ、究極的には、の話で。でもだからこそ、それを解く鍵は、「最後」だけにあるのではなく、「全体」において、ある。そこはひとまず措いといて。
その「分からない」は、「分からないや終わりー」ではなく、もし真面目にそれに向き合えさえすれば、強度を生む。意味に回収しきれないのに、無駄ではなく確固としてある、つうか寧ろ重要、そういったものには、それゆえの強度が宿る。強度――「崇高な対象」と言いかえてもよいでしょう。届かないくせに確実に重要なものとしてある”素振り”を見せるもの、私たちが見える表側の奥にある裏側・本質のような”素振り”を見せるもの。そういう錯覚を抱けるもの。強度というのは、名前どおり、フラットに相対化されないからこそ「強度」。彼の中の彼以上のもの、わたしが見た作品の中の、わたしが”見れた”作品以上のもの、そこには何か、本質のような、あるいは裏側のような、何かが隠されているかのように思えてしまう、だから「強」度。
そしてそれは、それゆえに、宙に浮き、それゆえに、処理を必要とする。謎がしこりのように残る、一目には分からない最終回――「謎」は作品内に幾らでもあるが、最終回は、最終回ゆえに、”重要である”(無駄ではない)という意味が、あるいはその素振りが、増す――に出くわした時、それでもなお向き合おうとしてその「強度」を目にした時の人の反応は、概ね、この4つではないでしょうか。たとえば、誰かの見解に頼る(考察や解釈を見る)、とか、あるいは、異常なまでの自分の読みで補う(とにかく読む・解釈する)、とか、または、さらなる外部に廃棄する・さらなる外部を確立させて放棄する(作家論に偏重する・設定読みに埋没する・あるいは「原作」(また「元ネタ」など)をイデア立てて終わらせる)、とか、はては、時間をもって象徴的に訓致する(CLANNADは人生)、とか。
「強度」と申しましたが、しかしそれは、それゆえに、その強度がその概念に、ぱぱっと結び付いたりはしない。分からないけど重要だということは分かる、という意味に回収されない重大なしこり、自分が見た「作品」と見えない部分(言外の言)も含めた<作品>(と錯覚させられるもの)を繋ぐ本質のそぶり、それゆえ生じる解釈の自由度と、自由度ゆえに生じる不自由度(何を思っても必ず正解には”なれない”)、それこそが、その「分からないのに重要」という概念であるならば、それゆえに、「これがこうなのです」というぱぱっとした結びつきは無い。「CLANNADは人生」であれば、3年間のあいだ、悩んだり考えたり、あるいは悩まなかったり考えなかったりしながら、作品と自分との関係をあれやこれやとこねくり回した結果として、「CLANNADは人生」という言葉が出てきたのであって、最後まで見た、わー人生だー、なんてものではない。少なくとも、その場合は、また違った意味での「CLANNADは人生」である。
しかし、現状を見るやに、「分からないや終わりー」のほうが優勢であり、上に書いたようなことは、それに対しては何ら意味を持たないのですが、しかしこれもまた一面的というか、みんなが速攻の答えを求めすぎてるように感じてしまうのは、ネット上なりで感想(考察)を「喋ってる」からなのかもしれません。私が喋る以上、私は私に対して、仮でも(借りでも)いいから答えを持っていないと、少なくともベクトルとしてのそれを定めておかないと、「喋り」が覚束なくなってしまう。そこにおいて、共有されていない「崇高な対象」は、当然殺される。それにもし誰もが「分からない」と思っていても、誰もが「分からない」しか述べない多人数の喋りというのは、教えたがり・考えたがりの価値が増す分、普通なかなか成立しません(成立した場合はネタ化に流れる)。もしそうであるのなら、喋りの場はたとえそれでも、そこを離れた場所では『京アニCLANNAD』と向き合い、この「分からない」と向き合って、格闘してもらいたい、そう願っているのです。わざわざすげー長い間、このアニメを見てきた経験を無駄にしないためには。なんかそんな感じで、おわり。