エロゲ:日常描きの臨界線

メモ。そのうち何かしらで纏めたい。


エロゲにおいて「日常描写」と呼ばれるようなものがある。いやそれ自体は漫画にもアニメにもラノベにもございましょう。「日常描写」。もちろんここでは括弧つきであり、何が日常描写で何が非日常描写かという境界はつねに曖昧さを孕んでおり、きぱりと分別しうるものではないでしょう。
さて、しかしながら、おおよそ、その「日常描写」なるものが存在するというように、わたしたちは認識しております。その境界線は、いやここまでが日常描写だ、やれそこからが日常なのだ、せっかくだから俺はこっちの日常描写を選ぶぜ、と人によって異なるでしょうが、しかし多少の歩み寄りを見せれば、ある程度の統一性は見い出せましょう。
たとえば。個別ルートに入ったあとを、あまり「日常描写」とは呼ばない。
まずは大分類。「共通ルート」「個別ルート」があるゲームの場合、その大枠においては前半部が「日常」、後半部が「それ以外」となりやすいのではないでしょうか。もちろんこれは機械的に分類可能なものではなくて、「共通ルート」内における非日常的出来事は、日常描写から半歩あるいはそれ以上外れていますし、また小分類、「個別ルート」内でも、たとえば何の変哲もない食事風景や登下校、普段と変わらない生活においては、共通ルートから地続き的に「日常」でもあるでしょう。それこそ「共通」「個別」の区別が無い、いわゆる一本道な作品の場合は、その中での日常描写的なものが「日常描写」と呼ばれるようなものになるでしょう。
さて、もう少し深く見てみましょう。……すまない、飽きたのでここからはさらっと流す。「日常描写」「日常描写的」、これらを”私たちに思わせる”ものは何であろうか。
言わずもがなですが、それらの言葉には「反復」「通常」が含意されている。異常なものを日常とは呼ばないだろう。もちろん、何を異常と見るかという閾値は――これは”私たち自身”によって変わるし、また”その作品(物語世界)自身”によって変わるし、また”ジャンル(形態)”によっても変化する。極端な話だと。日本人とフランス人なら感じる「普通」もまた異なるでしょう。私たちから見てヘンテコな行動も、彼らから見たら普通の行動でありうる。現代日本を舞台にした物語と、中世ヨーロッパを舞台にした物語なら、その「普通」も当然異なるでしょう。私たちには学校通って一日三食たべるのが普通でも、彼らにはそんなんありえねーだったりする。そしてジャンル・形態。一言でいえば「エロゲのお約束」とでもいえましょう。つまり「エロゲにおける普通」。もちろんこれとて人によっても作品によっても時代によっても幾らようにも分化するものなのですが、たとえば、主人公がある程度(もちろんある程度!)都合良くヒロインと偶然会うことについては、いちいち突っ込まれない。その程度はもはやコードというより必然的な文法に近い形で、現在のエロゲにおいて普通と化している。プレイヤーが訓致されているとも言えるけれど、そこは共同作業的といったほうが的確でしょう。半歩のはみ出しでもそれを反復されることにより、通常となりえている。
さて。「日常」というものは、少なくとも物語世界内にて異常ではない。「普通」の領域に属している。また日常の字義的にも、それは一回限りの特別な出来事ではなく、「反復」されるものである。ここで一つ補遺をしよう。”一回限り”と”反復”の違い。たとえば、食事風景。これはありふれたものですが、しかし、厳密にはどれも一回限りである。同じような食卓は千回でも万回でも繰り返されるかもしれないけれど、全く同じ食卓は二度と繰り返されることはない。とはいえそれは”厳密”にする限りの話で、そんなこと言い出したら私たちの日常生活だって、ご飯食べるのもお風呂入るのも全部一回限りで、日常足りえなくなってしまう、日常生活なんて無いじゃんってなってしまう。しかし実際には、そうではありませんね。それは繰り返しであり、それが繰り返しでありえるのは、私たちがそこに同一性を見て取るからです。通学路にしろ通勤路にしろ、毎日のように通う道でかつ(車の通行などの)特に危険の無いところでしたら、ほとんど無意識に、目的地に辿り着けるでしょう。そのような、反復され続けた目的地に対し、歩いた記憶がないんだけどいつの間にか着いてた(そこに居た)、みたいな経験はないでしょうか?学校に着いたところまでは覚えてるんだけどいつの間にか教室に居た、とか、駅に着いたのは覚えてるけど殆ど無意識で家まで帰り着いていた、とか。にゃんこで有名なシュレーディンガーさんが言うように、過去習熟したものは意識上になりません。そこに異同がなければ(小さければ)、それは無意識の中で充分に達成できる、つまり以前と同じことを「反復」するだけでよいことになるのです。それは私たちの記憶の内に潜るとよりはっきりとなるでしょう。記憶。覚えているかどうかでいえば、今日のこと、昨日のこと、一昨日のことくらいならまだしも、普段と変わりない、特別なことがない通学・通勤や食事を、いちいち覚えていることなどあるでしょうか――いえ、いちいち覚えている必要こそ、あるでしょうか。それは「同一のもの」として区切りされて然るべきでしょう。もちろんそれは、差異が内在された同一(つまり時間が結晶化した先)であるのですが。
さて。エロゲに戻って。ではそこにおいて反復と一回との違いは何か。これは当然、上に照らし合わせると「異同」でしょう。変化による。しかしそれ言い出したら殆どが異同含みです。無意識になるくらい、殆ど含まないのなんてなによ、授業風景を三点リーダーで流す(『ONE』の授業風景)とか、そういうレベルになっちゃうじゃん。と、これでは日常が生まれないので、それを「同一性」で考えます。つまり「反復」も「一回」もそこにひっくるめられるような「同一」。それは時間を飛び越えて、ひとつの単位区切りを”そこに置いても”正当なりうる――私たちが日常と思える――区切り。たとえば、実践的に見ると。『Kanon』を例に挙げましょう。この作品では、ほぼ毎日のように朝食の場面が用意されています。祐一・名雪・秋子さんがリビングで朝食を摂る、と。これは朝食という大雑把な区切りでみると、なるほど色々と差異はありますが、同一のものでもあるでしょう。毎回話す内容は違ってはいるけれど、この三人がリビングに居てご飯を食べるという点では同じ。朝ごはんを食べるのは普通の行為だし、水瀬家の環境的にこうなるのも普通ですし、つまり先にも書いた異常と普通を分けるであろう一つのコンテクスト的な境界線において、これは普通の領域に属す行動であるでしょう。そして反復。何の問題もなく、明日もこれがあるし明後日もこれがあるし、昨日もこれがあったし一昨日もこれがあったはずだと想像できます。そして実際にそう。これは繰り返される。基本的には、これは繰り返して描写される。そういう点で、これは、その会話内容や食事内容の差異を含んで時間を結晶化した先では同一と見なすに値するような、そういう「日常描写」であるといえるのではないでしょうか(もちろんあゆや真琴が加わった時はまた別)。
さて。日常。水瀬家の朝食風景は常々描かれる。そしてそれは「日常描写」的である。しかしある時を境に、途端に描かれなくなったり、描かれてもこれまでより非常に短くなったり、あるいは、今までと全然違った色合いを見せたりします。それはどこでかというと、「共通ルート」から「個別ルート」へと変わった先ですね。そこではこれまでの「日常描写」と、大なり小なり異なった描き方がなされている。これは学校生活における描写でもそうです。『Kanon』以外でもよくあるでしょう、てゆうかすげーあります。一番ベタなのは、それまでは一日に数人はヒロインキャラと教室で話したり、廊下で出くわしたり、部活で会ったり、帰り道でばったりして、その度に話し込んだり遊んだりしてたのに、「個別ルート」に入ってからは急に、その個別ヒロイン以外には殆ど会わなくなったり、会ってもちょっと会話するだけになったりする。特別な狙い(三角関係とか友情とか)のないシナリオでは、仲良くなってもしょうがないというか、プレイヤーをやきもきさせるだけですから、他キャラの出番は当然少なくなるでしょう。描かれないからといって、それが”無い”とは限りません。むしろ朝食のような当たり前のものは、たとえ描かれなくても括復法的に、むしろ先見的に、在るものとして認知されるでしょう。どちらにしろ、無いにしろ語ら無いにしろ――むしろ後者の方が重大かもしれません、語る意味すらないと告げられてるようなものですから――それは、このような、それまでとの大きな変化をここにもたらします。それまでとはがらりと変わる。つまり、ここに、それまでとの「異同」が生じ、それまでの「日常」とは異なる時間がはじまる、ということです。そしてそれは、全く持って正しい。物語的にも。”ここからは違うよ”ということを見事を提示できている。恋愛にしろ、物語にしろ、――たとえそれが「新たな日常」になるとしても――これまでの日常とは違うよ、という線が、着実に引かれている。つまり、「日常」の臨界に至る線が、共通ルートにおいてこのように描かれている。
さて。ついでに。「共通ルート」というのは、その形態ゆえに、プレイヤーから見て「日常」になりやすい。なんせ私たちは、その共通ルートを幾度も繰り返して、同じセリフを同じ場面を何度も読んで見て聞いて、何回もスキップして、つまり繰り返してしまうわけですから。ゲームを進めていけば、最初の一人目、二人目くらいならともかく、どんどんと進めていけば、共通ルートは「先」に進む為の「道」となり、それを繰り返すことにより私たちはそれすら習熟してしまう――つまり無意識下で飛ばす日常のようになってしまうとも言えるでしょう。
別の視点からみた方がよいでしょうか。共通ルートというのは、私たちにとって一回性の体験とはなりえません。なにせ繰り返しますから。コンテクストは異なっても、やはり見ているものが同じ以上、それは「日常」と同じ、同一性に回収できる通いなれた小路でもあるわけです。しかしそれは、悪いというわけではありません。そこが日常であるからこそ、そこが普通であるからこそ、上に記したように、その先の個別ルートが、新たなはじまりのもの、特別なものになるのですから。