アニメ「とらドラ!」を全部観た

えーと、だいたい24時間くらいで全部観た。観ちゃった。観だしたら止まりませんでした。


はたして本作の何が一番、僕にとって魅力だったかというと、まずキャラクター。というと、なんかしみったれたものをそこに含む感じがしますが、いやね、違うんすよ、なんかね、凄いんすよ、マジでコイツらが好きになる。たとえば序盤、竜児が、みのりん好きじゃないですか、大河を応援してやりたい気持ちになるじゃないですか、それがめちゃくちゃ伝播してくれるのです。僕もなんか竜児の視点的な感じ(?)でみのりんが好きになるし、大河を本当に応援したいと思ってしまう。だからね、それが繋ぎに繋がって、要するに最終的にさ、こいつらが上手くいって、作中の言葉でいえば「報われて」くれれば、それでもう満足、それが一番だ、それが本当に僕にとって幸せだ、とか思ってしまった。てゆうかなんで自分はこれをちゃんと放送中に見なかったんだ。悔やまれる。一気見も、まあ邪道とはいえ、それはそれで味があるんでしょうけど、やっぱこう、一週間ごとにふわー、ぬおー、って気持ちを抱えて煩悶してもだえまくって、そんでこいつらの報われを見ててやることをするべきだったなぁ、と。
この作品見てこういうの思った(キャラへの、なんか好きな感じ)ってなんでだろうね、と思うので、もう一回観直してみようか。何話だったか、忘れちゃったけど、たしか一桁台。キャラクターが、泣いてるんですよ。大河だったか、どうだったか、もう誰だか分かんないんですけど。けれどね、その泣き顔を映さなかった――いや、最終的には映したかもしれないですけど、まずは、その、泣く声だけ聞こえた。顔は映らなかった。そこでなんだかポロっと来ちゃいましてね、こいつと一緒に泣かなきゃいけないというか、見える「声」以外の部分を自分が泣いて補わなくちゃいけないというか、そういう、なんかわけわかんねー気持ちになってしまって、ちょっと泣いたのです。あーそういえば、『とらドラ!』観てて結構泣きました。その一桁台のどっかと、16話の殴りこみのところ、いやいやアレはヤバイ、大河が竜児にはじめて笑顔を見せようとして見せた笑顔があんな作り笑い!それでいながら、その後殴りこみっすよ!その瞬間涙出たね。この成長。この格好良さ。この大河! え〜とあと、ラス前のみのりんが泣き出したところとか、なんか最終回で色々と、とか。てゆうか他にもあった気がする。まあ泣いたとかそんなんどうでもいいっすね。その「顔」なんですよ。声しか見えない、顔が見えないってところ。「見えるものと見えないもの」。
見えるものと見えないもの。外側と内側。外面と内面。作り物の自分と本当の自分。先入観の誰かとその奥の誰か。外側の自分と本当の自分。
この辺はちょっと通低していた感じですね。いやもう通低していたって言っちゃう。つうか通低しすぎじゃね、これ。でもテーマだなんて言わない、アホくさい。そもそもこれは無限ですしね。誰かの、外側の奥の内側。しかしそれは「本当に」内側なのか。「自分のことが一番分からない」というように、「本当」なんてものはあるわけがない。それと同じ様に、「これ」にすら、裏側と思ったこれにすら、さらなる裏があるんじゃないか……まああれです、細かいところは、あとで第一話からじっくり観ていくつもり。
そんで、その「見えるものと見えないもの」。それは「絵」というレベルでもあって、決定的なところで顔を映さなかったりする――あえて見せない――ところが一杯ありまして、それが逆に、いや、そうだからこそ、僕にこういう気持ちを抱かせているような気がする。見えるからこそ、見えないものを視ようとして、見えないからこそ、見えるものを視る。なんとかして、知りたいと思う。なんとかして、補おうと思う。なんとかして。その見えないところを。見えるところを。だから僕は泣くわけですし、こいつらが大好きなわけなんですよ。たぶん。
「報われる」ってのは当然、「幸せ」とイコールなものではなくて、それこそみのりんの竜児からの、あるいは大河の竜児への気持ちのように、それを「無かったことに」「聞こえてなかった/聞かれなかった」こと”しない”、ということ。それを夢で処理できればどんなによかろう。けれど、その「無かったこと」「聞こえてなかったこと/聞かれなかったこと」という外側の向こうでは、その言葉の裏側では、そこに見えてない部分には、”そうではないものがある”。どんなに結果になるか分からないけど……どんな結果になるにしろ。でももう、どんな結果になっても生きていける。その先に、その先に。

「でも、私は生きる」
「それはね、あんたがいるからよ!」
「あんたが誰と居るんでも、誰とこのさき生きていくのでも、それでいいと思ったのよ」
「ただあんたを……高須竜児を見ていたかったのよ」
(24話)

これがもう、素晴らしい。ああ、(1日でだけど)25回観てきて本当に良かった。こいつらここまで来たんだよ。もう僕らが、見守り”ごっこ”して心配してやらなくてもいいくらいに。



一番印象的な絵は何かといったら、まずこれです。OP(その2)ですけど。最終回の最後の方でも流れましたね。竜児たちは、何かの存在に気付き、こっちを向くわけですけど、これって果たして、そこにいる「誰か」の方に向いたのでしょうか。あるいはそこにいる「私たち」の方に向いたのでしょうか。あるいは、そこにいる「カメラ」に――いわばカメラ目線的に――向いたのでしょうか。

それはOP(その1)にもいえるでしょう。この振り返り。はたして彼らは「何を」見ているのか。
さらにOP(その1)なら、その冒頭。「こちら」――「こちら」の正体はさておいて――「こちら」を睨む大河、そして「こちら」に見られていることにはっと気付くような竜児。はたして見ているのか、見られているのか。見ているという事は同時に見られているという事でもある、ただそれだけなのか。
いずれにせよ、ここには、私たちに「見れないもの」が存在する。なんだか正体が分からない――分かりきれないものが。これが「カメラ」にしろ、「私たち自身」にしろ、私たちの視点を配する「誰か」にしろ、それが分からない。これはどういうことかというと、結局、「自分のことが一番分からない」ということです。作中でのそれとは全く意味は異なりますが、しかし。私たちは、私たちが見ているものを”どう”見ているのか、それすら分からない。
そしてそれは同時に、それを見ている時の彼らが分からない、それが見えないということでもある。Aに対峙する彼らがいて、そのAが分からない以上、Aに対峙する彼らというものは永遠に分かりきれない。そしてそれは同時に、決して自分自身が分からきれない、ということ。
でも、だけど、しかし。
そうなんです、そういうものなんです。分かりきろうなんてムリムリ、ありえねー。だってどこまで行っても不可能性は残るじゃん、非決定性は残るじゃん。でも、だけど、だが、しかし、だからこそ。表も裏も全部合わせてひとつとしてしまう。

「自分なんかが誰かに愛されるはずがないと思ってた」
「でもそれは、逃げてただけなのかもしれない」
「自信が持てないのを、親のせいにして、周りのせいにして」
「でも、竜児はわたしをそのまま愛してくれた」
「だからこそ、私はもう逃げない」
「私は変わる」
「全てを受けて入れて、自分に誇りをもって、竜児を愛したいから」
(25話)

自分で自分を受け止める。僕らだって、自分に嘘ついたり、見得はったり、意地を立てたり、怒りをぶつけたり悲しみを隠したり、まあなんやかんやと「外側」「内側」――まあそんな単純な、二分法じゃないですけど、なにかしら、「受け入れてない」部分があるじゃないですか。そいつを殺そうというのですよ。そう、確かに。そいつを殺したら、自分に誇りが持てる。そしてコイツはやってしまう。大河のやつは、それをやりとげてしまう。たぶん。わからん。僕らにゃ外側しか見えないし、内側とか言ってるけどそんなのそもそもホントにあるん?って問に答えようがないから。あーもう、だから最高なんすよ。つまり大河は「報われた」。無かったことになってない、つうかなって無さすぎる。だからもうここで終わりでいい。つかマジ終われ。てゆうか終わってるし。くっそー、本当に最高だ!


ってことでねー、なに書かれてんのか分かんない感じだけどぼくも自分で自分がなに考えてんだか分かんないぜ! って感じですので、えーと、一話から見直して、なんかもう一回考えると思う。きっと。とりあえず『とらドラ!』、よかった。万感の思いを込めて。大河と竜児と、あとみんなに。よかった。