アニメ「とらドラ!」第一話 25週くらい遅れでなんかかたる。

えい、やぁーーーーっ!!!


はいこんにちは。上のはただの奇声です。なんせこちとら25週遅れで「とらドラ!」感想はじめようというバカですからね、しっかりバカになっておかないと挫折しちゃいそうじゃないですか、だから奇声をあげとかなきゃならんのです。なかなか自分の心というのはむつかしいものです。そして、、、みのりん最高ーーーーっ!!!いやふぉぅーーっ!!




鳥さんですよ鳥さん。ファーストカットはつがいの鳥さんからはじまります。
この、つがいの鳥さん。第二話にも差し込まれていたし、最終話にも差し込まれていましたね。もう言うまでもないよね。暗示暗示、超暗示。大河&竜児。しかしこの鳥さんたちは、作中の彼らには見えない・見てないものなんだよなぁ。

そういや竜児はここで、「ふんわりヘアー」に憧れてて、そんで大河はふんわりヘアーなんだよね。いや何の関係もないだろうけど。
あー、こんな感じで、「とらドラ!」感想はちょっとだらけたテンションで向かわせていただきます。いや勿論本気で観てますよ。観るところは本気。愛し愛され、殺され殺しあう関係ですから。作品と自分は。いや目標なのかもしんないけど。蹂躙されつつ、蹂躙する。んで、その工程はアウトプット(感想)無しでも完結しうるものであって、じゃあなんで感想書くのかというと、とりあえず残しておきたいというのと、あとやっぱ何よりも、歯向かいたいからですね。泣いたとか楽しいとか悲しいとか怒ったとか嬉しいとか、そういう、作品見たときに湧いた感情が「何故」なのか分かんないとムカつくじゃないですか。なに俺は俺も知らない理由でそういう感情抱いちゃってんの、俺なのに俺の断りも無しで、みたいな。俺が勝手に作品にやられてんのが超気に入らねえ。えー、そんなわけで。僕はその答えとか理由とか何故とかを探る武器の一つとして、感想を書いてる(客観視、あるいは客観視できる場にあげるということですね)なんすけど、うわすげーこれ超エゴじゃん、ごめんごめん。で、さすがに好き勝手書いていくだけだと、読んでくれた人も、また後から読んだ俺自身も、なんか分けわかんなかったりつまんなかったりしそうなので、こうね、いつもは色々装飾付けてるわけなんですけど。さすがにねー。この「とらドラ!」感想って、25週遅れじゃないですか。てゆうか放送は終わってますし。俺以外何人読むのーって聞いたら、多分5人とか10人レベルなんじゃないかなぁとか思って、じゃあまあなんだろ、油断していいかなと思ったのです。アウトプットに関してを。もちろん視聴はブッ殺すつもりで観てるしブッ殺されるつもりで観てるんだけど、アウトプットはまあ皆様にお茶を配りながらマドレーヌ片手にほほほという気分で行いたいのです。いつもはブッ殺された死骸を綺麗にお化粧して晒してるんだけど、今回ばかりは臓物垂れ流しでもいいかなぁと。いや通常スタイルはこっちなんですよ。いつもはね、作ってるわけです。文字通り。んーとね、要するとね、今回はね、感想のコンテンツとしての質はいらねーかな、と。削がれるのは「感想コンテンツ」としての質部分だけですので、実質中身は変わりません。たぶん。
ということで、ゆるい感想なんですけどこっから25回よろしく。では続き。

「この世界の誰ひとり、見たことがないものがある」
「それは優しくて、とても甘い」
「たぶん、見ることができたなら、誰もがそれを欲しがるはずだ」

「だからこそ、世界はそれを隠したのだ。そう簡単に、手に入れられないように」
「だけどいつかは、誰かが見つける」
「手に入れるべき、たったひとりの、ちゃんとそれを見つけられる」
「そういう風に、できている」

散り散りだったふたりの声が、「そういう風に、できている」の部分で重なると。ふたりで、その言葉を紡ぐ。これだとまるで、「そういう風に、できている」の言葉の内実は、「そういう風に、(ふたりで)作ってく」というように聞こえてしまいます。いや実際そうなんですケドネーー!ラストまで見てから感想書くと何かタイムリープしてる気分だぜぇ。あと感慨深い。全てが。この竜児が。この大河が。あー、超可愛いな、こいつら。なんか甥っ子姪っ子というか、弟妹というか、それを見ている雰囲気というか、そうじゃないというか。
それはともかく。ラストの一言。「そういう風に、できている」。これは”ふたりで言った”というより、むしろ、”ふたりだから言えた”というように受け取った方がいいのかもしれません。一人では言えない。一人では見えないものは、やはり、一人では見えない、見つけられない。そういう風にはできていない。しかし、二人なら見える。見つけられる。だから言える。「そういう風に、できている」。


・しかし開始そうそう泰子はケツが揺れたり胸の谷間見せたりするのに、全然エロくないのね。やっぱ竜児かな。竜児だよな。竜児だよ。竜児はそう思ってないから。ここにおいて泰子は「点景」でしかなくて――それはたぶん「高須家」という区切りの中の、あるいは竜児にとっての高須家という区切りの中の――、それはこの見せ方に表れていて、また竜児の態度・言動にも表れていて、かといってそれはもちろん自然に。
つまり自然に竜児的な見識、あるいは、”そうと錯覚するもの”を見せられている、そういうような気がします。


・「これができてから太陽の恵みは奪われ」――大河のとこのマンションへの文句。大河の住む家ができた所為で竜児の住む家から太陽の恵みが奪われた、というのは深いですね。


目付きの所為で恐がられる竜児。内面ではなく、外面で。逆に大河は、外面というより内面で恐がられている。見た目恐怖で中身非恐怖の竜児と、見た目非恐怖で中身恐怖の大河。もちろん、ここでいう大河の内面というのは、大河の内面のどこまでを射程にしているかというと、その内面を構築しているさらなる内面までには到達出来ない部分だけれど。どちらにしろ。どちらも。そこにある先入観が――「誰も分かってくれてない」が、そこには在る。や、作中で出てくる「誰も分かってくれない」は、ちょっとね、字面よりもう一捻りがあると思う。それは分かってもらえては逆に耐えられないところ、相手が耐えられないし自分も耐えられないところ。外面をなぜ作るのかというと内面を守るためであって、じゃあなぜ外面を作ってまで内面を守る必要があるかというとそこに何かウィークポイントがあるからであって、そのウィークポイント――作中の言葉を借りれば、たぶん、きっと、最終話の大河の独白「自信が持てないのを、親のせいにして、周りのせいにして」のようなもの、自分自身がそれを知るのすら苦しい醜いところであって、だから。自分が知るのすら苦しいのだから、他人に知られるのはさらに苦しい。だから。隠す必要がある。その鎧で。

こんな顔じゃなかったら、みんなに怯えられることも、手乗りタイガーに絡まれることもない。
もっと自分に自信が持てたはずだ。そしてら……

たとえば、竜児のこの言葉も同じ。「自信が持てないのを、親のせいにして、周りのせいにして」。この自分の内面の”裏”には、つまりこう思ってしまうことには、恐ろしさがある。こう思わなかったらはたしてどうなのか、耐えられるのか、あるいは、戦えるのか。今自分で内面だと思ってるその内面の奥に、その内面を形成するに至ったさらなる内面がある。それに眼を逸らす、あるいはやり過ごす、もしくは逃げてるからこそ、その言葉になるのではないか。「だからこそ、私はもう逃げない」「全てを受け入れて、自分に誇りを持って(最終話大河)」からは、本当に遠い場所。

当然、このくだりは、さらに先に、さらに先に続いていきます。



進路調査票のくだり。このビビリっぷりw
あーもう、今観ると微笑ましいです。もちろん、今だからこそ微笑ましい。まったく同じシチュエーションが後半でありましたが、その時と対極ですもんねぇ。もう嬉しくなってしまう。クラスの奴らもそう。竜児に対しても、もちろん大河に対しても。”自然と”――そう、ホント自然なんですよね。徐々にさ、どうでもいい感じ(偶然にすら満たない感じ、というべきか)で巻き込んでいく。たとえば、廊下走ってどけどけぇって、ちょっと触れるだけの巻き込みとか。そんな些細なとこからはじまって、そんな些細なとこから繋がっていく。その偶然にすら満たないちょっとした積み重なりが、先の変化に繋がっていく。変化。何もやらなければ変化はない。それはほんの些細なところからでもはじまる。



机ふっとばし、そしてロッカー。これはもちろん、もちろんご承知のとおり、もちろん、あとに繋がる、あとで小憎らしい素敵な演出を晒していただけるんですけど、なんだろうな、この、机ふっとばし。教室めちゃくちゃ。机を吹っ飛ばす意義。教室をめちゃくちゃにしてしまう意義。……あ、いや、これは、深読みしない方がいいところかも。



襲い掛かってくる大河への、最初の視認は鏡ごし。鏡という媒介を通している。非直接。
非直接に視認した。あるいは、非直接だから視認できた?


・木刀が部屋の隅に立てかけてある。これだけでもうここでは敵意と闘争がないことを表示できてるなぁ。


・大河の恥よりさらなる自分の恥を見せてフォローしようとする竜児。

「ホント?協力してくれる?」
「なんでもね。犬のようにしてくれる?わたしのために、なんでも従順に?」

「犬のようになんでもするっていったでしょ」
「こなかったらどうなるか分かってる?これから分からせてあげても……(握りこぶし)」

この言葉。このセリフ。何はさておきこの言葉がまずはじめに自然と出てきてしまう(しかもその演技からまるで希求のような切実的な真剣さを漂わせて)ということ。そこにこそ注目しなくてはならない。犬のように。普通の人間はこんなこと言いません。ギャグでしか言わないよね。よっぽどドSなら言うかもしれませんが、この、「ホント?協力してくれる?」「なんでもね。犬のようにしてくれる?わたしのために、なんでも従順に?」、このセリフの時の大河の喋り方。表情。どうなのよ。ドS的な、嗜虐的なところは微塵も感じないじゃないですか。どころか、自然と、本当に自然と、まるで本当に望んでいることのように、望んでいたけれど届かなかったものがポロッと目の前に現れて、まるでねだるような、ついに手に入れたかのような、そんな切実さを感じませんか。
犬。犬。忠実なるもの。私に従うもの。それは決して裏切ることはないし、自分を見捨てることもない。自分をフォローする。世話してくれる。父親役。それを「犬」とする。忠実な犬として。自分が、手に入れる。そう、自分が持ってないものを持っている者を手に入れる。その為の盟約。そして飼い主は、主人は、つまり上に立つのは、支配するのは、常に自分で、飼われるのは、隷属するのは、従うのは、常にそいつ。絶対的な立場。
でもそれは、それゆえに、正当ではない。偽物。偽物の所有。そもそも相手が贋物の所有なのだから、贋物の所有を偽物に所有するということで、さらに倍。
つまりさ、大河はここで希求していたものを無理矢理手に入れてるんですよ。犬になれと、無茶振りかまして。外面、内面でいえば、これこそ外面。傷が濾過されて痛みが剥離されている「おままごと」な関係を、大河は自ら進んで手に入れようとしているんです。これですよ、これ。こうなんですよ。16年間(17年間?)生きてきた大河のここでの答えは、これでしかない。その悲しいまでの弱さは、しかし、これからおよそ1年後、いや数ヵ月後に、がらりと変わる。竜児と出会い、そして北村やみのりんや亜美たちと過ごした数ヶ月で、変わる。
つかさ、大河っちが擬似ファルスを擬似ゲットしてでもそれ擬似だしと気付いて、私はマジモンのをマジゲットするんだと戦う話は、とっくに語りつくされてそうだし書く意味なくね俺。


・今週のみのりん
まあとらドラの何が最もクリティカル(可愛いよ的な意味で)かって、そりゃみのりんだよみのりん。みんなたいがたいがと姦しいのですよ(なりたなりたと的に)。涙は心の鼻血なのだよ。

「ともに爽やかに、ほがらかに、青春をエンジョイしようではないかー」

うわー今週出番ねえー。これくらいじゃないかまともなセリフ。しかしこれだけでも語れる。否、いまの僕はみのりん理解度25%くらいなんで、語るたびに地に墜ちていくだけなのですが、考えるために、これから考えるために、ここから知るためにも、恥を忍んで語る。「ともに」「爽やかに」「ほがらかに」「青春を」「エンジョイ」「しようではないか」。こう腑分けにするとさ、なんかいじらしさみたいなもの、見えてきません? この言葉は冗談でも何でもなく、本気で言っている感じが見えてきません? それは、大河に、竜児にだけではなく、「ともに」が示すように、”自分自身に”も。彼女は自分で自分をガチでお作りになられるお方、というか、そうしないと死んでしまうんです。えーと、誇大表現だけど。半分は誇張抜きで。死んでしまう。たぶん。内面を守る外面というより、外面を守る内面、生きていくために――たとえば、その悔しさで、自壊しないように生きていくために――そのためのものであり、喩えるならば、彼女の場合は、外側が崩れてから内側が崩れるのではない、外側が崩れたらその瞬間に内側が崩れてしまう。そんな感じ。あーうーんー、僕の理解ダメっすねぇ全然、さすが理解度15%(←減った)!
まあこの辺は多大なる宿題ということで、いまは措いておきましょうではないですか。