アニメ「とらドラ!」第2話 この見えるものと見えないものに

さぁて、とらドラ!の2話ですよー。
というか。今回、語りようがないんですけど。凄くね、マジに。でも語る! ちょっと色々犠牲にしてる系です、すみません。
一番最初は、第1話と同じくつがいの鳥さん。これは後半、それが”いない”という描写で生きてきます。その次、「茶碗の受け渡し」を映した後の、見上げるような、大河から竜児への視点。その次は、見下げる、竜児から大河への視点!



今回は1カット1カット、とても目を離せない映像の連鎖が紡がれているのですが、この最初の数カットはとても重要ではないでしょうか。ここで見せられているのは視点、主観。それぞれ、「大河からの視点」と、「竜児からの視点」が映されているわけですね。前者からは、竜児は見上げるような格好だし、後者からは、大河は見下ろすような格好になる。
そう、実はそうなのです。わたしたち、ついつい忘れてしまいがちですが、この<カメラ>を通して見えている世界は、別に竜児の世界でもないし、大河の世界でもない。こういった眼球レベルで、もうすでに違うわけです。竜児の眼は高い所にあるし、大河の眼は低い所にある。眼球に映る世界に、人それぞれの断層が存在しているのです。
それが心象・心情レベルに至ったらどうでしょう。眼球だけでもそう、こんなに。竜児の見えているものも、大河の見えているものも、それぞれ異なる。それに心象・心情まで重なったら、”さらに”ではないでしょうか。竜児が感じていること、大河が感じていること、それぞれに、この目線の断層以上の溝があっても、おかしくはない。
さて、となると。わたしたち視聴者にとってはどうでしょう。わたしたちが見るこのカメラ(画面)は、竜児の眼でも、大河の眼でもない。たまに主観のようになるけれど(主観というのは常に”彼らの眼とイコールではない”(イコールかのように見せているものでもある)ことも加味して)、基本的にはそうではない。そう、ここでいえば、この直前のカット、この直後のカットのような。誰のものでもない、眼。ここにも断層がある。眼球レベルでも、わたしたちは「竜児の」「大河の」それと同じものを共有してはいない。
ではそれが、心象・心情レベルにまで至れば、どうか? さらなる軋轢、さらなる断層、さらなる溝が、存在するのではないでしょうか。果たしてこれが竜児の/大河の見ているもの・感じているものだと、どうやったら断言できる? どうしたら確信できる? 常に逃れていく。常に逃れていく、可能性がある。常に逃れていく、可能性しかない。
たとえば、今回の「とらドラ!」で特徴的なのは、語り(モノローグ)と場面との乖離。

えっと、だいたいで言うと、ここのトコロとか。

誰彼構わず噛み付く、手乗りタイガー。だけど、格好悪いほど、一生懸命なのは確かで、応援してやる気持ちに、ならないこともない。


こことか。

私さ、親と折り合いが悪くて、こんな家出て行きたいって言ったら、あのマンションあてがわれちゃった。

前者。これは、”この瞬間”のモノローグかどうか、分からない(むしろこの時の「気持ち」を「言葉」として表したかのよう)。後者。これは、この瞬間のモノローグではない(というか、この直後にセリフとして続いていますね)。
いずれにせよ一つ言えるのは、この画面に映っているものと耳に流れている言葉は、全く同じ時間のものではないということです。少なくとも、わたしたちが見て聞くこの絵と音は、竜児/大河と同じものを同じタイミング見て聞いているわけではない。ここでは――たとえば後者でいえば、ファミレスから一人先に出て行く大河という絵が、家からあっさりと離れられてしまった、その事実と重なっている。それは、大河の心情をわたしたちに伝えるために、補強されたようなものではあるけれど、決して、大河の心情とイコールでは結び付かない。前者もそう。この大河は確かに応援してやりたくなるけれど、それは、この説明は、そこから得た僕の感情は、決して竜児とイコールでは結び付かない。
でも、それでも、わたしたちにはこれしかない。カメラを通したものしか見て聞くことはできない。
彼らの主観と主観の間に断層があって、さらに<カメラ>との間にも断層があるのと同じ様に、見て聞いてわたしたちが知った「彼らの」心情や感情にも、断層がある。気付かないかもしれないけれど、溝がある。だってこれは、カメラというものを通しているから。わたしたちはどれだけ知れる? どれだけ気付ける?

「私のこと、分かって、くれない……」

その言葉は、僕らにかかるものでもある。大河のことが分かってやれるか?竜児のことが分かってやれるか?本当に?本当か?本当で? 竜児も大河も異なる視点をもっていって、異なる心も持っていて、同じものも違うものも、違ったり同じに見たり感じたりするように、北村もみのりんも、クラスメイトも、まったく関係ないやつらも、同じものも違うものも、違ったり同じに見たり感じたりする。どこまでも違うかもしれないし、どこかは同じかもしれない。でもいずれにせよ溝はある。圧倒的な。それはわたしたちにだって言えるはず。この画面から見えるものも聞こえるものも、彼らの、誰一人とだって、圧倒的に、同じにはならない。これを見て思った竜児の視点も、これを見て感じた大河の想いも、もしかしたら、もしかしたら、ただの思い違いなのかもしれない。それが「本当の」ことだと、どうして思える、どうして分かる? 「私のこと、分かって、くれない……」 僕らだって、彼らのこと、分かってやれてないかもしれない。
僕らに、彼らの「主観」を見ることは、どうしたって叶わない。僕らが見えるのはこの絵で、僕らは聞けるのはこの言葉とこの音たち。それは彼らの主観とは程遠い僕らの主観一歩前(その先が”僕の”主観)で、どうしたって届かないものがある。
見えてるものと、見えてないもの。
見えるものと、見えないもの。
でも、逆に、そうだからこそ。絶対的に分かってやれないからこそ、絶対的に分かってやろうと思えるのです。

たとえば、ここ。いや、ここ”たち”。

「なんで誰も分かってくれないんだろう。私たち、こんなにぐじぐじ悩んでいるのに、なんで誰も知ってくれないんだろう。ほんと、みんな、みんな、みんな、みんな……」

「むっかつくんじゃーーい!!」

「竜児がいたから、竜児がいてくれたから、だから……」

「好きっ!」

見せない。決定的に見せない。究極的に見せてくれない。その顔を見せてくれない。その面をおがませない。どんな顔してるの、どんな表情なの、どんな目付きなの、それを永遠に、僕らには分からせてくれない。僕らの視点にはこれが圧倒的に欠けている。直接的な彼ら。これはこの先も、本当めちゃくちゃ、死ぬほど、腐るほどといってもいい、大量にある。「見せてくれない」。
彼らは喜んでるのか? 泣いてるのか? 笑ってるのか? 怒ってるのか?
それを、見せてくれない。どうしようもなく届かないものにしている。その恐ろしさ。「むっかつくんじゃーーい!!」の時の大河の怒りも、「竜児がいたから、竜児がいてくれたから、だから……」を聞いた時の竜児の心情、それが喜んでるのか悲しんでるのかあるいはそういうのの入り混じりなのかも、「好きっ!」といった時の大河の勇気も、僕たちは共有できない。その先の焦燥も喜びも傷も、究極的には共有できえない。欠けている。圧倒的に。この<カメラ>の視点には、それが圧倒的に欠けている。
僕たちは、大河や竜児のそれを、実際的には共有できない。究極的には「分かってやれない」。クリティカルな部分を除きに省いたこの視点は、僕らと彼らとの関係を遠ざける。言うなれば、その非直接さは。傷が濾過されて痛みが剥離されている「おままごと」の視座も、提供している。
でも、だからこそ。直接的じゃないからこそ、分かってやろうと思う。この映してくれない眼球の代わりに、モニターのこちら側の自分が、何もかも補ってやろうじゃないかという気にさせてくれる。前にね、
(何話だったか、忘れちゃったけど、たしか一桁台。キャラクターが、泣いてるんですよ。大河だったか、どうだったか、もう誰だか分かんないんですけど。けれどね、その泣き顔を映さなかった――いや、最終的には映したかもしれないですけど、まずは、その、泣く声だけ聞こえた。顔は映らなかった。そこでなんだかポロっと来ちゃいましてね、こいつと一緒に泣かなきゃいけないというか、見える「声」以外の部分を自分が泣いて補わなくちゃいけないというか、そういう、なんかわけわかんねー気持ちになってしまって、ちょっと泣いたのです。)
こんなこと書きましたが、そういう気持ち。
分かってやれない? そりゃそうだ。他人の全てが分かるとかマジありえねーっすよ、だいたい自分の全てだって分からないじゃないですか。彼らも、俺らも。その不可能性は永遠に続くものだ。ならば何が大事か。不可能性があることを知ることが、大事なんじゃないか。勝手に「分かったつもり」になるのではなく、「分かってやれてない」ということ、その部分が確実に在るということを、知ること。……それは、それこそが、大河の望みでもあるんじゃないだろうか。
それは、映さないことによって生じる。ここにきちりと「溝」を作ったことにより、それではじめて、ようやくはじめて、「溝」があることに気付く。
映してしまっていたら、彼らの表情も何もかも映してしまっていたら、彼らの怒り、心情、勇気、その先の焦燥、喜び、傷、そういうのを、「共有できている」つもりになっていたかもしれない。そんな映されたものを見ただけで、「分かった」つもりになっていたかもしれない。でも、映さないことで、この世界を見る各々の眼の間に、各々の知覚の間に、「溝がある」ということを知らせることによって、その――大河がされると嫌であろう――その「勝手な思い込み」だけは、払拭される。勝手に、手乗りタイガーだなんだのと、ヤンキー高須だなんだのと、外面、そこからの思い込み、そこからの酷い理解――そして本作品後半になれば出てくるであろう、少し触れた内面、そこからの思い込み、そこからの惨い理解――それだけは、越えられる。分からないことが分かって、はじめて、「分かってやれてない」ことが、はじまる。
だから僕は、やつらの表情を考える。やつらの感情を感じ取ろうとする。泣き声だけしか聞こえなきゃ代わりに泣くし、怒ってる雰囲気なら代わりに怒る。勝手に。……それは理解とは程遠いかもしれないけれど、そうせずにはいられない。ここに欠けているものを、補いたくてしょうがない。やつらを少しでも知りたいために、ここに「無い」ことを、勝手に……これは感情移入じゃない、ただの俺の感情として、勝手に補う。そう、感情移入と、同着しきれない。見せられてないコレは、常に「感情移入としては」正しくない可能性を含む。お前の勝手な感情じゃねえの、それ?という問を、常に問われ続ける。常に彼らは僕から逃れていく。常に。
でもだからこそ、こうして、分かろうと足掻けると思うのです。そこに溝があるから。そしてそれは、ちょっとは越えられるけれど、その限界は、究極的に越えることはできない。少しは分かる。いや、結構分かってやれるかもしれない。でも、絶対全部完璧に分かることは、ありえない。そういう溝があるということ。それが示される。
だからまあ、最初にも書いたけど語りようがないんですけどね、語るたびに手から零れ落ちていくんで。でも語ってみた。ちょっと色々と犠牲にしながら。「分かる」は絶対的に届かない領域でありながら、なお「分かる」ということを求められた場合にできることは、「分からない」ところが在り続けるということを「分かる」ということ。それがあるからこそ、はじめて、「分かってくれない」という叫びを、「分かってやる」ことができる。そんなことだと思います。『とらドラ!』の描かれない顔は、描かれる溝は、こうして、この問に答える力を、僕らに与えてくれる。