『けいおん!』#3


「いもうと〜」「おねぃちゃ〜ん」「いもうと〜」「おねぃちゃ〜ん」「いもうと〜」「おねぃちゃ〜ん」……

 か、神はこんなところに居た!
けいおん!」のペストパーソンは平沢姉妹であって、そしてベストシチュエーションは憂いの姉萌えであると断言するのもやぶさかではない私としましてはね、もうこれ、コレ、超ヤバイ。超カワイイ。神。神! 思わず窓ガラス開けて夜明けの街に「いもうと〜」「おねぃちゃ〜ん」と叫んでしまいましたよ(心的現実において)。

で、その妹の憂ちゃんはえらく細かい気配りを見せてたのですけど、それってスリッパやお茶・お茶請けの提供などという目に付く部分以外にもたくさんあるので、みなさんもっと注視すべきですよ。そして憂ちゃんカワイイなぁとほくそ笑むべきでして、その憂ちゃんが姉に萌えまくる姿はさらにカワイイっすよねと驚嘆すべきでして、そして自己中的な「姉萌え」ではなくこの姉の友達への気配りのように他者愛(姉への愛)的な「姉萌え」を発揮する憂ちゃんはカワイイを通り越して窓ガラスをぶち破って叫ぶべきなのです。
えっと、たとえば。

第一声時の「姉がお世話になってまーす」。そう、ここの「まーす」という部分、声が伸びてる部分。ここでは、「姉がお世話になってます」ではなく、「姉がお世話になってまーす」と、憂ちゃんは声を伸ばして発音しています。何故か。それは声を伸ばさない場合を想像していただければ、違いは一目瞭然でございましょう。「姉がお世話になってます」が象徴する、礼儀正しいけれど堅苦しい、その正式さをこの「まーす」の伸ばし棒部分が脱臼させている。そう、普通に「姉がお世話になってます」だと、堅苦しいし、何より重苦しい。堅苦しさは、相手に緊張を生じさせるし、正当さ・礼儀正さが(相手へ)要求する正当さ・礼儀正さは、相手への重荷となる。たとえば、相手が愚直なくらい生真面目な人間だとして。いやお世話とかマジで全く全然してないよ、という場合、この言葉は少し重みになるし、言葉の方を自身のポジションに当て嵌めちゃうような場合、この言葉は多少の束縛になる。しかし、しかしです。憂ちゃんは、ここで声を伸ばすことにより、そういう重みを外しているのです。「まーす」の一言で、相手に与える重みを消し去って、はじめての家・他人だから生じうる緊張感も緩和させている。その為に憂ちゃんはここで「姉がお世話になってまーす」と伸ばし棒を付けたのです。そう、その為なんです。そういうことにしとけよ。ああもう、なんていい子なんでしょう、この子は。




また、たとえば。
ここなんかも、憂の細かな気配りと礼儀正しさが表れていますね。「憂ちゃんはいま何年生?」と聞かれ「中三です」と答えていた箇所ですが、律の右手側からお茶を置いて(これでお盆の上のものは全て置き終わった)、そのときに話しかけられたのに、わざわざ律の左手側、出口の傍・下座まで移動して、会話に参加する。(会話振られたのに)座らないで立ち話だと気を遣わせる、かといってがっつり座ってしまうとそれもまた気を遣わせる、だからこう、机の端っこに、ちょこんと座しているのです。ちゃんと考えて座ってるのです。気配りなのです。そういうことにしとけよ。ああもう、なんていい子なんでしょう、この子は。



視聴者の視座が、あの空間の「不可視の5人目」みたいに思うことも結構あれば、逆に「不可視」なだけで5人目じゃない――「存在してない」ことも結構ある感じ。むしろ「非存在の5人目」って感じでしょうか。存在は絶対してないけれど、この空間の「外部から」この空間自体を見ることは(同時的には)なく、主に内部からである。
たとえば、よく”分別せずに”見せている――つまり『見られてる』という意識がないものを見せている。たとえばほら、超細かい部分でも、この4人は”それぞれに沿って”超細かく動いたり姿勢を見せてるじゃない。そこにおける視聴者は、彼女らに”全く意識されない”ほどに居ない存在――つまり不可視(非存在)だということ。



律のたんこぶのこのグロさ。……いや、なんかグロくないすか、これ? 見てらんなかったんすけど。やべーよ救急車呼ぼうよとか思いながら見てた。「痛々しい」というか、「生々しい」というか。ただ”たんこぶがあるよ”ということを示すだけの記号”以上に”、やけに肉感的にしっかり描かれてるし、妙に長時間持続して描かれている。たとえば、傷を描く代わりに(たんこぶという)記号を描く、とは正反対な感じ。これは、ご覧になっていただければ分かるでしょう、痛みは完全に剥離されている。痛そうに押さえることがなければ、痛そうなまなざしを向けるものもいない。そういう感じに却って宿る、なんか「痛々しい」「生々しい」感じ。
さて、誰もたんこぶを見ないし押さえないし気にもかけないしと、当本人の律も含め、彼女たちはまるでたんこぶが存在しないかのように、あるいは見えないかのように行動しています。これは、翻れば、作中世界の彼女たちには見えないけれど(存在しないけれど)、視聴者には見える(存在する)のかもしれないということ。共通な認識ではない――かもしれない。彼女たちの行動や反応を見る限り、あれ(たんこぶ)があの形のままであそこには存在しないのかもしれない――あの形で存在しているように見えるけれど。
その逆もありましたね。和(メガネ)登場直後の、律の昔の失敗談が語られるとこ――話の内容はすっ飛ばされて、こちらには「ありえない」「キャハハハ」という事後のリアクションのみが聞こえる。また唯や律のテストの点数は分かったけれど、澪と紬のテストの点数――これは、唯も律も見ていながらも、ついぞこっちにだけは知らされなかった。
完璧に同定させないのですね。いずれにせよ。僅かばかりの「ズレ」がある。そしていずれもが、「彼女たち」自体は、それぞれとしては周囲状況を鑑みるとわりかし自然な振る舞いであるように、見られることに意識的ではない(ないし、無いかのよう)けれど、その先の視聴者に「見せる段階」が、見られることに意識的である、というのが他の場面とは比べ物にならないくらい現われている――なにせ、彼女たちと視聴者の間の非共有がみえみえなのですから。
まあこの辺の話はあれよ、また来週以降に続くんじゃないの、たぶん。