けいおん!第4話 感想

写真。というのが1〜3話まで、セピアっぽい印象の写真が挿入されてまして、今回それは無かったですけど、しかしそれでも「写真」「カメラ」は目立ってましたね。そもそも冒頭(Aパート最初)からして「写真・カメラ」でしたしね。
写真は物事を写しますけど、それは人の知覚とまったく一緒ではなくて、常にそこからは幻想が引かれ同時に足されてもいるでしょう。「ただその瞬間の対象」が写されたというだけでなく、その時に感じたもの(幻想)が、見る際のコンテクストのように足されたり、あるいは、その時の自分の眼には見えたはずのモノが、写真からは消えていたり。云ってみれば、前者は電車内でのムギの寝顔の写真のようなことです。それは(実際の写真が示されることはありませんでしたが)端から見ればやはりただの寝顔で、唯が「よしなよ、かわいそうだよ」と述べたとおり、そういう瞬間を撮られても、撮られた方としてはあまりいいものでも楽しいものでもなく、また当の本人がその写真を見ても、そんなに嬉しいものではない――少なくとも、被写体であるという時点で(しかも「寝ている」のですから段違いに当然なのですが)、「撮る者」と同じ幻想をその写真には抱けないでしょう。どうして写真を撮られるのがかわいそうかというと、そこにあるのはただの「寝顔」だからです。律や唯にとっては、律の云うように「思い出、思い出」でもある――この合宿の1ページを飾る、ただの寝顔”ではない”(ただの寝顔以上の幻想を抱ける)1枚になるのだけれど(だからこそ唯の「よしなよ、かわいそうだよ」の口調が、その字面とは裏腹に囃すようなノルようなものであったのでしょう)、しかし撮られてる本人は、その幻想から疎外されていて、もちろん「ただの」寝顔以上の意味、合宿に向かう時の寝顔という意味は持っているけれど、しかしそれだけで、唯や律と同じ幻想は抱けず、この瞬間を収めた写真をわざわざ特異にする理由はない。「ただの寝顔」の恥ずかしさと、その幻想が割に合わないからこそ、「かわいそう」という言葉が出るシチュエーションで、またそうであるから、ラストで澪は律が撮った自身の寝姿の写真に怒ったのでしょう。写真は撮る者の幻想をパッケージングする、けれども。それはその人(正確には「その時の」)にしか通用は担保されていない。
逆に。どうしたって写真には写らないものもある。各々の主観をどこまで写真に収められるか。現実に幻想が強ければ、写真に収まる幻想はそれに劣るのではないだろうか。たとえば、怖がっている澪を写真に収めたところで、それを見る他の者は、澪が何をそんなに怖がっているのか、わかるのだろうか。彼女が心の中でしている恐怖するだけの想像・妄想・空想は、決してその写真の中に写らない。
その最たるものが「花火とギター」のシーンですね。
あのシーン。あのキラキラと輝いている音の絵は、はたして現実に「あった」ものなのか? 恐らく否でしょう。『けいおん!』における背景がこれまで殆どリアルで通ってきたことからも、あそこだけ現実世界が変貌したと読み解くには多少無理がありましょう。それよりも、現実に「こうだった」のではなく、「こう見えた」ものである、と考えた方が、恐らく近いのではないでしょうか。”澪にはこう見えた”。あの華やかな花火をバックに演奏する姿は、とてもキラキラと輝いていて、その景色は、自分の目にその時映っただけの景色であった。だからこそ、「めざせ武道館」を、彼女は張り紙などをどかして再度前面化させるわけです。

あの景色を再現するには、それしかない。自分の目に見えたこのキラキラと輝く音の絵を、唯や律やムギの目にも見えるようにするには、それしかない。というか、したい。「by軽音部」と書いたのはまさにそこ――写真には収められないこのような幻想を、もう一度見るには、また、皆で共有するには。その為の目標というのは。これである。
しかし「めざせ武道館」。もちろん、彼女たちの言動や練習をみる限り、本気で死ぬ気で目指しているわけではないでしょう。方針としての目標ではあるけれど、条件としての目的ではない。つまり、ここにおいては、「花火とギター」で見えたものの再現も共有も、目標としてはあっても目的としてはない。それは非常に「らしい」のではないでしょうか。目標はあっても目的はない。うん、ごめん、この辺ちょっと当てずっぽうで書いてるけど。えっと、またぞろ、来週以降に続くということで。