「けいおん!」の背景について、あとモブの描かれ方について

メモ。のわりには長いです。



モブがまともに描かれない(「けいおん!」でいえば、今の所(第2話までで)唯一なんですけど、↑みたいなの)、というのは、接続不可能性を思わせます。なにせ奴らは人の輪郭をなぞっただけの存在であり、それは人間として当然まともじゃない。一応そこに誰かいますよ、という証ではあるが、それ以上ではない。そのまともでないモブとは会話することないし、接触することもない。繋がることは決してない。そこに人間的な、他者的な中身はひとつもない。記号的な人間、記号的な他者ではなく、人間的な記号、他者的な記号としての存在だ。仲良くなることもなければ会話することもないし、かといって(直接に)傷付けられることもない。「人が居る」以上の意味はとことんまで薄れている。

ではその逆は何か。一応人間だ。唯がぶつかっただけの男も、人間だ。人間として描かれている。他者である。接触可能性はある。いや現に肩がぶつかっているではないか。第1話冒頭のおばあちゃんにだって、手を貸してあげれているではないか。犬だって触れる。それと同じ様に、まだ見ぬクラスメイトとも会話ができるかもしれない、あまつさえ会話が弾むかもしれない。 輪郭線をなぞるだけのモブと肩がぶつかるか?手伝えるか?会話が弾むか? いやできるかもしれないけど、それはなんとも、シュールを通り越して異常な光景ではないでしょうか。だってもう個体識別も何も無い記号なんですぜ。こいつらもう、通行人A以下なんですよ。A・Bって区別がない。全員同じで一緒くた。いやもう通行人とかクラスメイトっていう区別すらない。だってもう見た目上は完璧に交換可能、通行人もクラスメイトも同じじゃないですか。
つまり。外側の人間は全て同じであるということ。そして繋がれないということ。繋がれる人間は、ちゃんと別個に描かれている。そしてこのモブが、もし将来的に(瞬間的にでも)繋がれる存在になったなら、そのときはちゃんとした個人として描かれる。いやそうでなくても、ある日のクラスメイトは輪郭をなぞるモブ、また別のある日のそれと同じクラスメイトはちゃんと描かれるモブと、接続性関係なしに変化するかもしれない。
いや、恐らくは。何らかの関連性、その記述の必要性に応じて、ある時は輪郭、ある時は人間として描かれると言えるでしょう。「らき☆すた」でいえばアレですよ、普段、クラスメイトは輪郭だけど、たとえば最終話の文化祭準備の場面では人間だったじゃないですか*1

それはどんな違いがあるのか。関連性や閉鎖性を表しているのかもしれない。普段は彼女たち数人の小さな共同体外部はまるで関連しないひとつの記号であるけれど、この時に限っては文化祭という単位、つまり学校という単位に押し上げられて、描かれるものもそれを包括したのかもしれない。それはケースバイケースで意味を生じさせるでしょうが、いずれにせよ、いずれにせよほぼ確実に言えるのは、その描写は必要性に応じて変化する。その「必要性」の中身は、その時によって変わるでしょう。ある時はあることを意味するために(意味する効果をもたらして)、またある時はあることを意味しないために(意味しない効果をもたらす)。
意味はさまざま、機能はさまざまにしろ、それは「可変」であり、可変であるということは、それが変わる場面には何かがあり(何かがなく)、それが変わらない場面には何かがない(何かがある)。


普通の人間として描かれるモブは、それだけで、個別の存在として、この世界に生きていることが確認される。少なくとも個体認識不可能なモブよりかは、個別的に存在しているように思えるのは確かでしょう。そしてそれはならびに、「映している」世界の在り様も示す。自分や周り以外はどうでもいいという世界なのか、自分や周り以外がたとえ自分に絡まないとしても自分関係なしに確固として存在する世界なのか――というように表象しているのか。これは、「世界がそうだ」とは限らず、世界はそうではないけれど、「そのように映している(認識している)」だけ、なのかもしれない。たとえば、ただの通行人など、接続可能だけど別に接続しませんよという、実質接続不可能な存在だ――つまり「関係ない」。それでも、関係ないモノをありのままに映す世界なのか、それとも、関係ないモノは関係ないものとして映す世界なのか。
これはあくまで「存在」ではなく「映し方」の話で、それは輪郭線をなぞるだけのモブはその世界で「この形として(輪郭線をなぞったあの形)」存在しているのではなく、普通の人間として存在している、と考えた方が恐らく妥当でしょう。人体の形状が自由自在に可変なギャグ作品でもない限りは、あの世界にあの形のままの人間がいるというのは、その逆よりかは考えづらい。つまり認識の歪みがどこまで形成されるか、という問題でもありましょう。たとえば、わたしたちにとっても、道歩いててすれ違うだけの通行人なんかは、ある意味その輪郭線なぞるだけのモブと一緒で、誰であろうと同じだし、絡むことないし、関係ないし、個体識別するも必要ない。あとから思い返したとき、それは輪郭線なぞるだけのモブとなんら変わらないし、それで十全代用できてしまう。けれども、それでもなお、普通の人間として描くのなら、それはそのような自己の「認識以外」も描いているということになる。必要とされない部分、意味をなさない部分、関係ない部分をそぎ落とした認識ではなく、(比較的という留保付きで)そのままのものを描いているとも捉えられる。
認識において実質上関係ないものは、実質上関係ないからこそ、世界に存在していてもそれを変化させて描くのか。また逆に、認識において(心的において)実質上関係あるものは、実質上関係あるからこそ、世界に存在していなくてもそれを加味して描くのか。


この隔たり。映し方の隔たり、認識の仕方の隔たり。



それは「背景」にもいえるのではないでしょうか。たとえば彼女たちの認識に従うなら、あるいは、あることを強調したり効果的に見せるためには、関係ない部分は描く必要がない、どころか、↑のようにした方がよっぽど有効な場合も多々ありましょう。


たとえば、唯が感じる不安っぷり、ビビリっぷりを示すというなら、こういう風に背景に手を加えた方が、示されるでしょう。そして、この「けいおん!」において、そういう風に手が加えられている場面は少しはある。

でも、ホント少し。第1話で、そもそもがそれを成した者による主観的で認識的である回想シーン・空想シーンを除いて、背景に手が加えられているのは、このふたつの箇所だけ(他、空想の箇所で3回(うち一つは律の捏造回想))。他はデフォルメも色づけも省略も変化も、何もなされていない、と見受けられる背景。
なるほど、たとえば、キャラクターの心情を伝えるという意味では、これは十全には程遠いかもしれない。不安なら背景を暗く澱ませたり、喜びなら花が咲くようにぱっと明るくした方が、キャラクターの心情は伝わるかもしれない。唯の心情を伝えるのならそのように加工した方が強く伝わるかもしれないし、またキャラクターの心情でなく、作品の全体、物語の中身や雰囲気を伝えるには、そのように加工した方が強く伝わるかもしれない。
しかし、だからといって、そうする必要があるだろうか。キャラクターやら、物語*2や雰囲気やらに、実質上関係ないものも描いて、実質上関係あるものを描かない。それはキャラクターの心情や、物語や雰囲気などが伝わる重みが減ってしまうかもしれないけれど、減ってしまえば減ってしまった分だけの、別の重みが生じる。(そもそも、キャラクターの心情や物語の中身や雰囲気を伝える・伝わる必要性など要求されているのだろうか。国語の授業じゃないのだから)

その背景の変化を、この認識において考えてみたらどうだろうか。背景が変化するということは、認識における重みをそこに投射しているということであり、逆に背景が変化しないということは、認識における重みをそこに投射しないということである。みたいな。それはキャラクターの心情だったり、物語やら作品の雰囲気やら、色々な面に及ぶでしょうが、とにかく、変化しないということは、そういったものに揺らがない世界が描かれている(描かれた結果はそういったものに揺らがない)と考えることもできるでしょう。

たとえば――上記引用は第1話から適当に抽出した箇所ですが――この背景。心情なり、雰囲気なりを伝えるのであれば、あのようにではなくわざわざこのように描く必要性はないかもしれない。けれども、このように描く。ということは、心情なり、物語なり、雰囲気なりを伝えるために世界が揺らぐことはないし、そういったもののために描かれるものが揺らぐこともないともいえる。
や、「ない」っていうか、ちょっとはあるんですけどね。第2話でしたら、




回想・空想を除くと、以上の4点。――しかし、これだけしかない。しかもうち3点は、キャラクターのデフォルメ化された動きに合わせて、世界自体もデフォルメ化されるという、スケール的な異相であり、単純な足し算引き算ではない。


世界に存在しないものは殆ど直截的には描かないし、世界に存在するものは殆ど直截的に描いている(と思われる。究極的には確認不可能)。それにより生じるのは、リアルではない。決してこっちの方が現実的だ〜などということだけではなく(もちろんそういう面もあるでしょう)、実質以外も描く、つまり前者に比べれば、没意味的・没機能的であるということです。ひとつの意味や機能に邁進していない。その拡散性はリアルな世界でありながら、同時にリアルな認識ではない。ただし「けいおん!」は、ご存知の通りキャラクターの表情が千変万化ですよね。世界は殆ど不変でも、彼女たちの表情はいくらでも変化する。硬質な世界での振舞いは、世界が振る舞いを個々人だけのもの・あるいは彼女たち共同体だけのものへと後退させる。彼女たちが何をやろうが世界はほとんど変わらないし、逆に世界がどれだけ不変でも彼女たちは勝手に変化しまくっている。それはリアルと非リアル、現実的と想像的の接触ではなく(むしろ象徴的でしょ)、ひとつのものを現実的に見るか、想像的に見るかという違いだけではなく、この世界・この瞬間をどう写し取るか=この世界・この瞬間がどうであるか、という姿勢の相異ではないでしょうか。
とまあ、第2話の時点で書いてるので、「けいおん!」におけるそれが一体何なのかとかは、このように全然わからなかったのですが(笑)、まあメモ的にということで、いずれはもうちょっと掴みたいなーという宿題的な何かということで、おわり。

*1:ここ以外にもそういった箇所は沢山あります。

*2:物語が映像で語られる以上、物語に関係ない映像など存在しないと思うのですが、一応便宜上。