背景とモブについてメモ――『けいおん!』と『らき☆すた』

背景について、思ったことを書きます。
けいおん!』と『らき☆すた』がこの記事でメインなのは、別に他のアニメでもここでいうことが当て嵌まる部分もあれば当て嵌まらない部分もあるかもしれませんが、両者が京都アニメーション制作で4コマ漫画原作であるという共通点を持っていることと、何より僕がそのふたつが好きで知りたいからだということからだけです。もしかしたら一般的に拡大できる部分もある話かもしれませんし、固有の話かもしれませんし、固有として見てもずれている部分がある話かもしれません。そしてメモと題したとおり結論は先送られて、この先の視聴の参考の一つとして埋没する。



さて、背景やモブについて。

(その世界における)リアルな人間の形として描くのではなく、輪郭線をなぞるように描かれるこのモブというのは、抽象的とか記号的であるんだけど、同時に、恣意的なものも感じます。つまり、カメラ(なり作品なり)という主体が「その世界」を認識したモノが描かれてる、みたいな感覚。たとえ輪郭線でモブが描かれるにしても、輪郭線キャラが街中を歩いているわけではないでしょう(ギャグ作品ならともかく)。普通の人間が街を歩いてるんだけど、テレビに映される段になってはじめて「普通でない人間」=輪郭線で描かれるモブに変貌する。
それは作品にとってだったり、この瞬間のカメラ、物語にとってだったり、あるいは作中の誰かにとってだったりするでしょうが、そういう風に描かれるというのは、そこにおいては(その主体においては)、このモブの人物はそういう存在であると捉えられるでしょう。たとえばミツバチは開花している花だけを認識して閉じている花(つぼみの状態)を認識しない――開いている花と閉じている花を同じ「花」として認識しているのではなく、まったく別のものとして、そして後者は「意味のないもの」として認識している――という話がありますが、ある意味ではそれに近いのではないでしょうか。関わらないものは関わらないものとして、個別識別する必要がなくなる。彼にとって要らないものはたとえそれが世界にあっても要らないものとして認識される(アフォーダンス的な)。それはその主体にとって、ということになるでしょう。つまり映されるのは、その主体の「認識済み」のものである、のと(わたしたちにとっては)同意なのではないでしょうか。
そこにおいて、その「認識済み」を観るわたしたちにとっては、たとえば輪郭線で描かれるモブキャラというのは、どうでもいいキャラだからそう描かれたのではなく、そう描かれたからどうでもいいキャラになっている。こう描いた理論が、描かれた対象を決定している。主体は描かれる側ではなく描く側にあり、描く側というのはイコールで認識する側。そしてここでは、描かれる側にとっては、自己の内実がその記述に決定されている(凌駕されている)。そのモブがたとえどんなに凄くて偉大な奴であろうとも、そう描かれている以上は、ここにおいてはどうでもいい存在でしかなくなってしまう。輪郭線モブという描き方は、当のモブ本人がたとえどうであれ、内在的なものとして存在し、決定的なものとして外在してしまってるわけです。つまり、わたしたちは「認識済み」を観ているわけで、そしてその「認識」が、わたしたち自身の認識もある程度決定しているのではないか、ということです。



そう考えると、こういった単色背景が示すのは、空間的閉塞性よりも認識的閉塞性だったりするわけです。非現実空間は認識の内にしか存在していなくて、そしてこの空間は、現実空間にある何かが失われてはじめて出来る可能性が生じる。ここは「在るもの」が殺されて、はじめて生じる空間。モブと同じ様に、背景においても、何らかの主体を通じて世界を見ることになっているのではないでしょうか。
世界は決してそのままが映されているわけではなく(その保証はなく)、加工されたものが映されている。
そして加工されてる以上は、「加工主」がいて、その「加工主」の加工の理論を通じて作品を観ているわたしたちは、その理論(認識)に知らず知らず引っ張られている。
たとえば『秒速5センチメートル』などは、綺麗すぎるという「加工」により逆に幻想化されてるといえるかもしれません。新海誠さんの背景はあまりにも綺麗すぎて、それはわたしたちが現実に見る景色よりもあまりに綺麗すぎて――現実で景色は、特別な瞬間でもない限り、あんなに綺麗には見えないでしょう。風景は美しく見えることもあるけれど、常にどんな時もどんな場所も、あそこまで美しくは見えない――その幻想性が、わたしたちが見る物語を幻想譚の領域に引っ張っている。

たとえば『けいおん!』と『らき☆すた』の差異のひとつに、こういった点を挙げることはできるのではないでしょうか。『らき☆すた』ではモブは輪郭で描かれることもあり、背景も自由な空間に変わりうることは多々ある。けれど、『けいおん!』では、そういったことはかなり少ない。それはどういうことか。ここまでの話を前提にすると、それは単純に「あまり加工されていない」ということになるでしょう。そしてだからこそ、たとえば『らき☆すた』には感じず『けいおん!』には感じられる「不可視(非存在)の5人目」のような、ある種の幻想が抱ける*1。加工の激しい空間では主体の「認識」が多くの場所を消してしまっているため幻想できなく(しづらく)なる。あるいは加工の認識と自分の認識が乖離しすぎて同一視できなく(しづらく)なる。つまり、それでは見られていない空白が消えてしまう・認識するべき空間が消えてしまうということです。自分以外の何かの認識を通していることがあからさまになると、そしてその何かに同一化できないとなると、幻想の寄る辺が消える。
描かれたこと(描き方)が、対象の内実を決定し、あるいは印象を確定し、また他の要素と絡み合う。「描くもの」が「観るもの」に、その描き方によって間接的に(かつ直截的に)働きかける。そういった面もあるのではないでしょうか。

*1:これ以外の要因も勿論あるでしょう。たとえばあのカメラアングルは、眼の位置を考えさせるに大いに作用している。