美少女への仮託は、しかしベタを回避した消費でもありえるのではないだろうか

http://d.hatena.ne.jp/hachimasa/20090526/1243338171(「ほんとおまえら、美少女に問題を仮託するの好きなのな」)
八柾さんのところに。あとで書くとか言っちゃったし。前提としての詳しいところは、そちらをご覧になってください。ある意味、記事タイトルがかなり大部分を語っているような気もする(といったら失礼かも、ごめんなさい)。


大雑把には「この動画における澪に、自分を見る」みたいなことでしょうか。八柾さんは「問題を仮託」と仰ってますが、しかしそれでは少し大仰ではないかと。もしかしたらちょっと違うのではないかなあと。


これは基本的には、ある種のファミリー・ロマンス的な慰めの構図を持っていて、つまり「ぼっちの俺、惨め」というのが、 「澪がぼっち、惨め」 → 「ぼっちだけど、(ぽつーんとしてるその姿とか)可愛い、なんか憎めない、同情できる」 → 「『ぼっちの俺』を(当然だけど)俺は外から見たことがなくて、その外から見た姿が多少でもこんな(澪みたいな)感じなら、たぶん、多少は、可愛かったり、なんか憎めなかったり、同情できたりするんじゃないか」 という鏡像の捏造がまずあるかなと思います。外から見たことのないぼっちの俺を外から見るということ=つまり俺の鏡像である。それは、俺が”思っていたよりも”マシだったのではないか、救いどころがあったのではないか。ぼっちの・ぼっちだった俺を俺がちょっとでも赦してあげられたら。

もちろん鏡像なので、逆にその鏡の対象(澪)は自分とはかけ離れている・届かない、と「自分との差異」も潜在し続けるでしょう。ただこの場合は、元からひとつの要素を強引に切り取ったものと明白なので(上の動画でいえば、「けいおん!」における実際の流れも物語も関係なく、ただこのシチュエーション・この構図だけが切り取られている)、それがどう作用するかにもよるでしょう。「そこだけだから」違う、「そこだけだけど」同じ、はたしてどちらに転がるか。

「対象が救われる=俺が救われる」みたいなのはさほど重要ではないというか、もしそれが”あるとしたら”その鏡像の後で、しかもこっちは強度的にも疑問な捏造なので(前者は心的現実に客観性(鏡像)という嘘を少しくらいは塗れるけど、後者は何か結び付くものがない限りは虚無なものに過ぎる)、はてさてどうかなあ人によるよなあとかちょっと思いますが。
他にも、そこからもっと離れて自虐的な楽しみ方とか、そこをもっと行き詰めちゃって自分のぼっち性を忘却とか、子供がぶたれてる的に相対化・普遍化とか、あるいは別に俺ぼっちじゃなかったけどもしかしたら俺もぼっち的なところがあったかもしれないと逆転移的に引っ張ってきちゃうとか。
どれか一つに全ての人が当て嵌まるというのは当然無いと思われます。


結局の所、この手の問題(かがみんぼっちにしろ俺妹にしろ)は、「何かを取り上げて普遍的に語れる」要素があるだけで、それが個々人に「適合するか」はまた別の問題――つまり人それぞれ、なのだと思います。
「問題を仮託」だけだったらどこにでもありふれているもので、たとえば、ちょっと入れ替えれば、美少女のところをエロゲ主人公で置き換えられる――「ほんとおまえら、衛宮士郎岡崎朋也黒須太一や前島鹿之助に問題を仮託するの好きなのな」、とか。そのくらいに、鏡像的なるものは溢れかえっている。対象が美少女であるのは、分かりやすく・らくちんに、つまり「何を考えているか」「どういう文脈か」を無視してデータベース的な要素の一致だけで面白い・あるいは癒される、その鏡像の構図に到達できるからでもあるでしょう。
しかしそれゆえに、これらはネタ的・メタ的でもある。というか、ベタを回避し続けている。


これは単に消費の一形態でしかなくて、そしてこれがニコニコ動画にあげられているという点は見逃せないでしょう。「問題を仮託」しているのではなく、「要素的な同一性を消費」しているだけ、と言えるかもしれません。ここで同一されるのは、交換不可能な・分断不可能な・超大事なしっかりとした「自分・自己」ではなく、それこそデータベース消費を自分に適用してシミュラークルしたような、「自分の中のとある要素・一面を持った自己のコピー」を、そこに仮託している。そこでは問題自体が元から切り離され歪み、自己自身も切り離され変容している。
そもそも、対象自体(この動画の澪自体)が「元から切り離され」「歪んでいる」ものですからね。これは澪であって澪でない。その「切り離されたもの」に、わたし達は自身の一要素のみを「切り離して」投射している。これもまた、それは自分であって自分ではない。もはやこれは、問題が仮託されているのではなく、原因からも過程からも切り離された「要素としての問題」(データとしての問題)が、ただ同一なだけである。
だからこそ、お手軽に一要素を切り離した鏡像が生まれるわけで、そしてだからこそ、この程度でも鏡像になりえる。データベース鏡像です。
そして自分の脳内で勝手にやっているならともかく、ニコニコ動画、あるいは「かがみぼっち」なら2ch、そういった場においては徹底的に「ベタ」が回避され続けます。というか、「ネタ」が潜在し続ける。これは消費対象だということが(制作のではなく、その場における消費の)起源にあって、それが残余として残り続ける。さらに対象は二次創作。捏造性=ベタの回避=メタ的な投影・同一化が、どこまでも残り続ける。
接続的要素の量から「非ベタ」な自分が接続され(鏡像の捏造)、それはあくまで二次創作消費的な「消費の一形態」であり、さらにニコニコ動画2chなどの場の特性により決定的なベタは回避され続ける。


「ベタの回避」は形を変えて、たとえば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」や、上に挙げた「エロゲの主人公」にもいえることですね。「俺の妹」は、そもそもの「妹を攻略するエロゲーを妹にやらされた兄が妹を攻略するかのような出来事を送った日々を纏めた妹を攻略するかのようなラノベ」という構図、読者に語りかけるような(てゆうかエロゲ・ギャルゲ的な)文章、やけに自己言及性の高い京介の一人称・モノローグなど、ベタに埋没することを逃れるような、メタ的な、自己言及性が目立つ。エロゲの主人公だったら、もうまんまそのメタ要素的なもの、and(or)、ひとつひとつのルート(物語)がそもそもベタではない、というところですね。メタ的な要素が没入にもそのフレームを僅かばかりでも導入したり(黒須太一)。主人公のトラウマ的なものが解消される物語が正史・トゥルーエンドとは限らなかったり(前島鹿之助)。「ベタの回避性」がそこかしこに氾濫している。


上では「ベタが回避されてるから消費だよ」みたいに書きましたが、しかし、現代においては(特にインターネットにおいては)、そのように「ベタが回避」されるからこそ、鏡像足りえるのではないかとも考えられます。ベタが回避されているものに対しあえてベタに挑む――というか、メタにおいてベタに挑む。自己言及もメタも当たり前、そもそもベタが存在しない(大きな物語的なロールモデルがない)のだから、全ては同じレベルにある。と捉えることもできる。
いずれにしろ言えるのは「どちらでもありえる」ということ。そういう要素を「ない」ということはできないけれど、そういう要素を「絶対」ということはできない。言葉を換えれば。問題を仮託している人もいるだろうし、単純に要素の同一性を仮託しているだけの人もいるであろう、という。