アニメ「けいおん!」の感想(主に最終回)、まなざしの内実

もう明日には最終回のさらに次の「番外編」がはじまっちゃいますが、とりあえず最終回(第12話)をメインに、ここまでの感想を。


「いまいるこの講堂が、私たちの武道館です!」
これねえ、すごい好きです。

「私たちにとっての=私にとっての」なわけですね。それは他の人にとっても・みんなにとってもそうだとは限らないし、また「いまいる」であって、常にこの講堂が武道館であるわけでもない。「いま」「私にとって」、ここが武道館である。


自分が最初に『けいおん!』で、これは凄いというか、なんか「あれ?(いい意味で)」と思ったのは第2話、ギターを買いに行く時に、いきなり楽器屋に向かわないでみんなでその辺をぶらぶらするところなんですけど、ここがですね、凄い細かかったんですよ。

それぞれのキャラがそれぞれの自分自身に沿って行動しているなぁ、と。たとえば、UFOキャッチャーやってる時、唯と律が前に出てプレイしながら盛り上がっていて、澪はみんなのこと&UFOキャッチャーのことが気になりつつもでもちょっと離れた後ろから見てて、ムギは超はしゃいでる。こんな僅か1秒ちょっとの1カットで、音声も無く、ダイジェストでささっと流していく場面ですら、彼女たちの性格や行動原理みたいなもの、その妥当性は徹底されている。何話も見た後で考えれば、こういう場面に彼女たちが出くわしたら、そりゃこういう行動を取るだろうと簡単に予測はつきますが、しかしそれは既に序盤から徹底されていて、そして何故予測がつくのかといえば、同語反復的ですが、それが徹底されているからでしょう。
一言でいえば「細かい」ですけど、その細かさの徹底・一貫性が何を生むかというと、その細かく描かれたものの道理、つまり「どうして彼女(たち)はここにおいてこういう行動をとるのか」の理由であるんじゃないかなと思います。だからこそ、ムギはここならこうする、澪はこれならこうする、というのがわかる。こういう細かい部分においてすら、彼女たちがそういう人間であるということが、鋭くわかる。


これをもう一歩進めますと、彼女たちは「彼女たちなりに」物事や出来事を見て、接している、といえるでしょう。これはですねー、重要だと思います。一月くらい前に書いた記事(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090527/1243366011#c)の、VLさんのコメントに触発されてね、それ以降はちょっとその方面から考えながら見てたんですけど。

『まなざし』。
ここでは、「○○が見る××」といった感じの意味で使います。えっと、『まなざし』って書くと齟齬りそうですけど、なんと言い表したらベストか分からないので、便宜的に。

「○○が見る××」というのは、当然みんな異なっていて、たとえば憂が見る唯、律が見る唯、梓が見る唯、和が見る唯なんてのは、みんなそれぞれ異なっている。物理的には同じ「唯」っていう人間なんだけど、そこにかかるフィルターがそれぞれにあって、彼女たちの中ではそれぞれ微妙に異なる「唯」である。それは唯が見る唯(自分自身)もまた、同じですね。
視覚的に「見えている」ものはそれぞれ同じだけど、感情的に「見えている」ものはそれぞれ違う。
勿論「唯」に対してだけいえることじゃなくて、誰に対してでもいえることだし、また個人じゃなくて、集団とか、場所とか、物とか、出来事なんかにもいえるわけです。たとえば、軽音部に入部することにした梓の軽音部への視線と、軽音部に入らないことにした憂のクラスメイト(今回出てましたね)の軽音部への視線は、異なる。

それぞれの人物が、それぞれの眼で見ている。
たとえば第10話冒頭での、唯に対する憂と梓の『まなざし』なんかは象徴的でしょう。唯がべたべたスキンシップしてくることに対し、「お姉ちゃんってあったかくて気持ちいいよね」という憂と、そのことをむしろウザがってる梓。この場面、「いや、そういう話じゃなくて」と述べた梓に、憂は「はぇ?」と返しますが、そのやりとりから分かる通り、これらの感覚は彼女たちにとっては自明のものとなっています。憂にとっては「あったかくて気持ちいい」という感情を抱くのが、当たり前になっている。さらに続く所――「ごろごろしてるお姉ちゃん可愛いよ」――において、梓は「なんだろう、この私と憂との感覚の違いは」と、この両者の違いに対し的確なコメントを(心の中で)述べています。
それらは違うものである。感覚の違いである。
けれど、しかし、そこに優劣は付いていないのです。この回において――というか『けいおん!』において――誰の見方が「正しいか」なんてのは全くなく、全ては彼女たちそれぞれのものとして在り続ける。UFOキャッチャーをやる時、率先してプレイすることが正しいのか、筐体にがっぷり近づいてのめり込むことが正しいのか、大はしゃぎしながら横で見守るのが正しいのか、一歩引いた場所から興味ありげに見守るのが正しいのか。そういったことは少しも問われない。彼女たちそれぞれの視線に優劣はなくて、自分の視線は自分のものとしてただあるだけ。敢えて言えば、全てが正しい。

家でごろごろしている唯を見た時の、憂・梓・律の反応が収められたこの一枚の絵なんかは、恐ろしく象徴的でしょう。それぞれの台詞は、憂「かわいいなぁ」梓「聞いてたとおりだ」律「なんかホッとするな」。ごろごろしてる唯を見た憂の反応は、自身で述べてたとおり、「おねえちゃん可愛い」。梓の反応は、それまでの会話から推測されるように、「あきれた」感じ。律の反応は、唯のダメダメっぷり・あるいはマイペースっぷりを見て、「安心できる」感じ。これが一つの絵に、並列に存在しているわけです。どれが優れてる、どれが正しいなどというのは、全く無い。それぞれがそれぞれの反応――この唯に向けるまなざしを、ただ示しているだけ。この絵のように、並列に、優劣付かず並べられている。

しかし、この回の梓の変化が表すように、そのまなざしは絶対に固定されたものではなく、変化も含む。梓が当初、軽くウザがってた唯に抱きつかれることが、この合宿を通してそこまでイヤなものではなくなったのですが、その理由はこの合宿で、唯のスキンシップに対してそういう風な感覚を抱いたからでしょう。唯のスキンシップ自体は前と変わっていないけど、受けるほうの梓が、前と違ったふうに捉えれるようになった。「お姉ちゃんってあったかくて気持ちいい」というのは、この梓の反応が示すように、単純な肉体的接触「以外のもの・以上のもの」がそこにあるということです。憂だって、お姉ちゃんがあったかくて気持ちいいだけで、誰に抱きつかれてもあったかくて気持ちいいわけではないでしょう。「あったかくて気持ちいい」の内実とは、肉体的なそれだけでは決してない。表面上のもの「以外のもの・以上のもの」を視ていて、それが「あったくかて気持ちいい」に繋がるものだからこそ、憂は、そして梓も少しは、「あったくて気持ちいい」と思えるのです。
それがここでいう『まなざし』。「私にとっての○○」。眼球的に見えている以外の・以上のもの。
当然だけど、それは「絶対」じゃない。誰にとっても唯とのスキンシップが「あったくて気持ちいい」ものではない。誰にとっても、ごろごろしている唯が「かわいい(憂の眼)」わけでもない――また同時に、「あきれる対象(梓の眼)」でもないし、「安心できる感じ(律の眼)」でもない。並列で示されるように、優劣が付けられていないように、どれかが「絶対」というわけではない。つまり「本質」「真の」「本当の」などというものは、無い、もしくは、あっても、それは重要ではない――少なくとも『けいおん!』においては、重要ではない。ただ個々人の視線が、まなざしがあるだけで、そして等価だからこそ、その価値は、他の何かに劣るものではないし、他の何かと交換できるものではない。
少し目先を変えると、第12話の冒頭の夢。夢の中でムギの眉毛は「たくわん」でした、また無理して部室に来た唯が、朦朧としながら視たムギの眉毛も「たくわん」でした。本当は「たくわん」ではない……と思われる、九割九分。しかし夢の中のまなざしに、たくわんは存在していて、朦朧とした中には、存在している。冒頭の夢の部分に「蝶」が出ていて、朦朧とした中では現実の眉毛を「たくわん」と錯覚するなど、なんとなく「胡蝶の夢」を思わせますが、それと一緒な面もあるでしょう。「私にとって」が現実なのか、それとも「現実にとって」が私にとってなのか。いずれにせよ、いまここで私に見えるものが、「いまここの私にとっては」確かである。
律のやけにグロイ「たんこぶ」は何なんだろうって過去何度か書きましたが、これもそういうものかもしれません。誰かの視線・まなざしの残滓として存在しているもの。そこにあるのは、実際に在るものではなく、またそれが見える視座=視点ではなく、胡蝶の夢のようにただ残る視線の残滓。


「いまいるこの講堂が、わたしたちの武道館です!」


この言葉は、まさにそういうことでしょう。これは本当の武道館ではないけれど、ここを本当の武道館と見るのは幻だけど、けれど、この講堂を私たちの武道館としてライブを行うその価値は、本当に武道館ライブを行うことと比べて、少しも目劣りするようなものではない。わたしにとっての武道館でライブをすることは、本当の武道館でライブをすることに、少しも劣らない。そして交換できるものでもない。仮に、必死に練習して本当に武道館ライブが出来てたとしても、その価値はその価値で、この講堂でのライブとは全く違う意味で在る。そしてその場合は、もし学祭でライブをやるとしても、このセリフはなく、つまり「この気持ち」はなく、今回のライブとは全く別の価値になる。
「いまいるここ」でのライブは、「いまいるここ」以外でのライブと交換できないし、決して価値も低くない。自分が「いまいるここ」は、自分が過去・未来・あるいは”if”のなかに居た「そこ」と交換できないし、それと比べて価値が低いものでもない。これは、この軽音部だから、この人たちだから、こうであったという、何ものにも換え難い、何ものにも劣らない、価値。

ここが「私たちにとっての武道館」である理由、それは、逆説的ですが、梓にとっての唯のスキンシップが、ちょっとウザいものからちょっとあったかいものに変化した理由と同じように、その発言の直前の部分、ギターを買うためにみんなでバイトしたり、毎日部室でお茶を飲んでたくさん喋ったり、ムギちゃんの別荘で合宿したり、入部してくれる一年生を探したりと、脇目も振らずに練習に打ち込んできたなんてとてもいえない日々だったけど、ということからじゃないでしょうか。あるものが「私にとって」そうであるのは、「私自身が」(いまの私が見るそのものが)こうであるから。その『まなざし』の内実は、そのまなざしを構築した私自身、その日々。それは、他人から見たら中身のないようなものかもしれないけど、価値の低いようなものかもしれないけど、彼女(ら)にとってみれば、自分自身の、唯ひとつの、何ものにも換え難いもの。そういう点で、たとえば『けいおん!』は中身がないとかいう感想は、完璧に当ってるかもしれませんが、同時に、もう全くもって違いすぎると言わざるを得ないでしょう。『けいおん!』において描かれているものは、「わたしたち(視聴者)」にとってはどうでもいい中身かもしれないけど、「彼女たち」にとっては何ものにも換えられず価値も劣らない、どうでもよくない中身に、溢れている。