化物語 第2話 だいいちいんしょう

つきもの――憑き物。
アニメ化に、原作からの変化は”つきもの”であり――”憑き物”でもあるのだけど。
アニメ化を、おかしくするのも”つきもの”だ!


はい、原作キャッチコピー(上巻&下巻)を絡めた言葉遊びを挨拶代わりにおいときまして(この運びだと次週以降なに言うのかバレバレなのでもうしません)、もちろん”おかしく”も”つきもの”もダブルミーニングなのですが、これはなかなか、自分で書いといてアリなんじゃねえかなってちょっと思ったり(ぉ)。
ダブルミーニング。それに対する解釈はおおよそ二つ。表の意味と裏の意味、または、嘘の意味と真の意味。あるコンテクスト上ではどちらかが正しくて、どちらかが間違っている、そういう二重構造の意味。というのがひとつ。ふたつめ。どちらの意味も”正しく”あり、そしてどちらも正しく”在る”以上、どちらにも決定し尽くせない。決定不可能性としてのダブルミーニング、二重性。たとえ相反しても両方が等価に共存している。あ、あともう一つか。”両方を合わせて”という意味。両方の意味を合わせたものが正しいというか確実というか明確である。あいや、最後にもういっちょう。上に挙げた三つの意味全てを併せ持つ――合わせてこそという、四番目の意味、解釈。

化物語』の映像はある種乖離的なんじゃないでしょうかね。たとえば、「眼のアップ」がやけに目に付きます。しょっちゅう、キャラクターの瞳をドアップで、あるいはズームインして映す。他のアップ、たとえばバストアップなどとの比率を鑑みると、かなり多いのではないでしょうか(他のアニメと比べても)。そういう作法は普通、キャラクターの感情的なものの何かを表し――たとえば、あるセリフを言われたキャラの眼のアップは、セリフを言われたそのキャラの感情的な揺らぎ、その言葉を云われたことの驚きとか、戸惑いとか、そういうものを想像させる――表したりしますが、それをこんだけしょっちゅうやってると、逆にどうでもよくなってしまいます。全てを注目しろ、しょっちゅう注目しろと言われれば、逆にどこを注目していいのか分からなくなり、逆に無意味というか、逆に無関心になってしまう。つまりカメラの関心が、視聴者と比して過剰すぎる――多過関心になっているので、逆に、こちらは関心できない。まあそもそも、原作を参照することは邪道なのを承知で言っちゃいますけど、実は本当に「なんでもない箇所」でも「眼のアップ」が結構行われますしね。原作的には、暦も戦場ヶ原も別に驚いたりしていないと思われる箇所――翻せば、そうやって強調するほどではないであろう箇所でも、頻繁に行われる。具体的な例挙げると、第1話の、ガハラさんが暦の妹に言及したところ、原作じゃギャグテイストに流れていたのに、アニメじゃ「眼のアップ」によって軽く深刻な意味合いを持ってしまっている。の割には掘り下げられることはないんですけど。あ、一応弁解しておきますと、別に改変がどうこうと言ってるわけではありませんよー。アニメ単品で見ても、どうにも分からない、その「眼のアップ」が意味するところが分からない、暦や戦場ヶ原の感情に則せているのか分からない(過剰かもしれない)、つまり――このカメラの動きは「誰のものだ」といいたいわけです。

そう、誰のものだ。Aパートの会話劇のアングルは特徴的でしたね。ありとあらゆる方向から、場所から、部屋の何処からでもカメラは映す。時々、忘れないように――忘れられないようなタイミングで、遠景(部屋の外から部屋全体が見渡せるようなアングル)も入れつつ。つまり窃視。「会話劇」的なものが多くなりそうなこのアニメの「会話劇」の箇所で、こういう方法を取るのは素晴らしいのではないでしょうか――まあ先のことはわかんないですけど。あらゆる角度から覗くのに、あらゆるアングルから覗くのに、”まだ見えない”ものがある。窃視の特徴の一つ。特にガハラさんが裸姿だった今回は象徴的なんじゃないすか(笑)。その”まだ見えない”――つまり、さらに”奥がある”は、会話と非常に相性が良いでしょう。話している、喋っている、たくさんの会話を行っているのに、言語コミュニケーションの必然、その言葉の裏には・陰には”まだ見えない””奥”が潜んでいる、発言の裏には発言されてない(言語化されてない)ものが潜んでいる――潜んでいるように、見えてしまう。この辺は「影」とか、カメラと被写体の間に置かれる何かしらの「障害物」などにも通底しているでしょう。邪魔者があると、その奥の何かが――たとえ本当は何も無くても――意識されてしまう。まだ見えない、まだ奥がある、このアングルでは見えない、このパースペクティヴでは見えない、このカメラでは見えない”まだ”が何かが在る――本当は無くても――、そう思えてしまう、見えてしまう。
あるいは逆に。その過剰さは。本当に”無い”ことが見えてしまう。本当に在っても無くても、どうでもよくなってしまう――関心が薄れてしまう。
逆に、ではなく。ダブルミーニングのようなものなのかもしれない。どっちつかず。どちらにもついている。はたしてそれは、誰のものか。

たとえば、戦場ヶ原が過去を語りだすあたりからは、まるで映像も、戦場ヶ原自身と同じく擬似トランス状態に陥ったかのようになりますが、あれこそ、誰のものなのか。語られている内容――あらすじ、話のすじ、事柄、出来事、そういったものは、戦場ヶ原の認識するソレと、忍野や暦の認識するソレと、あるいは「事実」と、同じことである、それに忠実であるかもしれないけれど。その語られ方、つまり「映像」は、恐らく、確実に、それと異なる。あれはあの形であったものではない。あれはそこにいる忍野・暦・戦場ヶ原の、「誰かの眼」を通したものではない。あのような世界ではない。ならば――あのように世界を映しているだけならば、それは「誰のもの」か。

そういう点での「乖離」です。この映像の「重さ」は。誰かに依拠しているものではない。
彼らの内の誰かのものではない。過剰の窃視は、盗んでいる者を浮遊させる――視聴者の欲望から逃れていく。ならばこれは、このアニメの「重み」。戦場ヶ原の過去の映像、あそこで「映されているもの」は、無いのではない。本当の世界にはないけれども、過去の事実は誰の眼にもそうは映っていないけれども、見えなければ無いわけではない。ただし、在るわけでもない。実際に、そうではなかったのだから。兎にも蟹にも見える、月の模様と一緒ですね。見えるものが違うわけではない。見えるものは同じで、見え方まで同じなのに、見えた結果だけが違う――解釈だけが異なる。それらは、どちらでもあるし、どちらでもない。兎でもあるし、蟹でもある。けれど、兎ではないし、蟹でもない――当たり前だけれども、どちらも正しくはない、正答ではない、つまり、つまり、正しくないということは、それを保証するものは何処にもいないということ。それを保証するものは、自分しかいない、自分以外には何処にもいないということ。ならば。その見た結果の・解釈の「重み」は。自分で引き受けるしかない。
そう、だから、この「映像」は、第一義的には、伝えてるわけでも、表しているわけでもなくて、ただ単純に、このアニメの「重み」だということです――そしてそれは、同時に、「乖離」を表す。彼らの誰かの眼ではなく、自分自身の眼(欲望)でもないのだから、それは「遠い」――乖離している。

……やっべーごめん、なんかノリで書いちゃった。
いやね、先週、わからないわからない言ってましたけど、「わからない」ということで、そこにおいてまず疑うべきなのは、「自分のものではない」ということ、そして「自分の知ってる誰かのもの」でもないということです。近いものなら、分かるかもしれないけれども、こんなに分からないのなら、それは遠いのではないだろうか。遠い。ただし画面上で展開されている。そこにあってそこになく、ここにいてここにいない、『化物語』に乗じて喩えるならば、「怪異」のようなもの。あるいはダブルミーニングのように、意味が遠いのかもしれない。分かりきれないまま、永遠に続いていく。それでもいい、あるいは、そういうものかと、思うのだけれども。

ということでねー、……もう、何書いてんだ自分。なんという抽象的な意味分かんない度。来週はね、もうあれですよ、「八九寺、俺だー、結婚してくれー!」って書くだけで終わる予定ですよ。