「真剣で私に恋しなさい!!」

かなり良かったというか、超良かったです。個人的には、ラストシナリオまでやってはじめて「どこが良いのか」分かった、そんな感じでした。

以下すごくネタバレね。見るならばラストシナリオ終わってからにしてね。




コミュニティから離れて、別の場所に旅立つことになる。子供から大人に。いつまでに同じところにいられない。いつまでも秘密基地があり続けて、いつまでも金曜集会が続いて、いつまでもここにみんな留まれるわけではない。いつかは、ひとりで、進まなくてはならない。

楽しかった想い出は胸に秘めて。
その未来を輝かせるために、
俺達は、それぞれの第一歩を踏み出した。
キャップ「よーーし!!」
キャップ「日は落ちて、祭りは終わった」
キャップ「進もうぜ! 明日へ! 勇往邁進だ!」
みんな「おう!!」

というのが、ラストシナリオ最後の場面なのですが。これっておそらく、語られてないですけど、他の個別シナリオでも似たようなやり取りがあったのではないでしょうか。あるいはやり取りはなくても、その心境だけは同じだったのではないでしょうか。
個別シナリオのエピローグでは、(百代を抜かした)全てのシナリオで、各キャラのその後が語られます。みんな風間ファミリーから離れ、夢に向かったり迷ったりしながらも、それぞれがそれぞれの生活を送っている――それぞれの明日へと進んでいる。そして、離れ離れになりながらもなお、風間ファミリーという仲間の関係は、形を変えながら続いている。そこには、語られてなくても、上のようなやり取りはあったかもと想定できるし、また少なくとも、上のやり取りの時と同じ様な心境であったのではないかと想像できる。

正直、ここが最も面白いです。
たとえばですね、本作のそのラスト(ラストシナリオの最後)を見ると、本作が「旅立つ子供たちの物語・旅立つ子供たちというオチ」「大人になるに向けての物語・大人になるに向かうというオチ」と、読めるかのようですが、しかし上のような「旅立ちの時」というのは、ラストシナリオ以外でもおそらくあったと想定されるのですね。個別シナリオは”エピローグで語られているように”おそらくそうだし、それどころか、途中で終わっちゃう場合(京と結ばれちゃうエンドとか、心の執事になっちゃうエンドとか)でも、もしかしたらこういうやり取りはあったんじゃないかと想像できる。各エピローグで彼らの旅立っている姿が語られているように、たとえばそれは別にラストシナリオでなくても、彼らは「旅立つ」。つまり、大抵の可能性なら、彼らは「旅立って」、風間ファミリーの友達としての関係も続いているだろう、と予測される――つか、個別シナリオで、それがある程度、実証されているのです。

だからですね、これを「旅立つに至った道を描いた」とか、「旅立つとはどういうことか」を描いたとみると、どうしても欠損が残るわけです。なんせ、大抵の場合、全部”旅立ってる”わけですから。これは自分たち自身(現実)のことを考えてみれば話が早くて、僕ら学校を卒業したり引っ越したりで、それぞれ、そこまでのコミュニティから旅立っているわけですが、それってよく考えれば、どんなものであれ、十中八九旅立っていたと思うんですよ。中学から高校とか、学生から社会人とか、あるいは引越しとか、もしくは忙しくなってとか、理由は様々だし道も様々ですが、しかしどの道を通ろうと、そこから旅立つことになるのは変わらないわけです。少なくとも「全く同じ形」というのは、ずっと維持できない。
どんな道であろうと結果的に旅立つのですから、どんな理由や動機であろうと結果的に旅立つことになるのですから、それを「描いた」と見て取ると足りないわけです。単純に「どれでも同じ」に至るわけですから。だから、もう一歩踏み込む必要があるのです。


ちょっと話変わって、個別シナリオについて。
個別シナリオは全て一つのパターンの変奏です。基本的には、「何かしらの問題」があって、それを「大和や風間ファミリーのみんな」との中で解消・解決(の手立てを得る)という形ですが、もう少し細かくみると、そこで出くわす「問題」というのは、全て「(それまでの)彼女たちが彼女たち自身であるからこそ」出くわす問題でした。
彼女たちはそれぞれ、信念というか行動規範を持っていて、それは早い段階から(出来事でも言動でもテキストとしてでも)明かされてました。たとえば、自己紹介で「好きな言葉」をそれぞれ述べていたのですが、それなんかまさにそれを象徴しているものでしょう。

「川神百代3年、武器は拳1つ。好きな言葉は誠」
「川神一子2年、武器は薙刀。勇気の勇の字が好き」
「2年クリスだ。武器はレイピア。義を重んじる」
「椎名京2年弓道を少々。好きな言葉は仁…女は愛」
「1年黛由紀江です。刀を使います。礼を尊びます」

この「好きな言葉」というのは、彼女たちの信念・行動規範そのものでもある。前者三人は、作中においてそのことをまんま台詞として表明していましたね。
百代「ああ、私のモットーは正直に。誠に生きる事」
クリス「己の信じる道を行く事こそが義」
一子「でもあれよ、アタシは勇の字が一番好きだもん」「何事にも勇んでツッコミぶつかるまでよ!」

そこら辺が、彼女たちが直面する「問題」となります。正直に生きているからこそ、戦闘欲求がヤバイ。勇ましく突撃することはできるけど、もしそこで、敗れて、二度とチャレンジできない――「それに対しては二度と勇ましく突撃してはいけない」となった場合、果たして彼女に何ができるか。己の信じる道を行きまくれば、周囲との軋轢は当然起こる。さらに、クリス父がいうように、もし「己の主張が正しいのにそれが通らないとしたら?」の状況に、その義は、どう立ち向かえるのか。
あと二人はここまで直裁的な台詞はなかったような気がする……もしかしたらあったかもしんないけど。京に関してはお話どおり、かつ、仁のあとに愛を補足しているとおりで、仁の対象が非常に限られてしまっている(大和や風間ファミリーにしか愛を向けられない、しかもどちから片一方でもよいとなってしまう)。
まゆっちの「礼」というのは、実際にまゆっちがそうであるように、とても素晴らしいことでもあるのですが、その態度は、逆から読むと「壁がある」、その一言で言い表せると思います。その姿勢の象徴が、あの特徴的な、彼女の「怖い(笑い)顔」といるでしょう。この笑顔も「松風」や「日本刀」など以前の、彼女自身の取り外し不可能な礼=壁のひとつで、まゆっちは、”たとえ作り笑顔でも”笑顔を見せなければ失礼、柔い印象を見せなければいけない(これは彼女の過去・自身の能力の疎まれからそうなるのが理解できるでしょう)と思っていた。他者を慮っていたのですね。
由紀江「(一子さんはすごい自然に笑ってました)」
由紀江「(いつも素直で、気持ちを偽っていません)」
笑わないから礼を疎んじているということはない。
由紀江は笑顔を作るのをやめた。
愛想笑いを捨て、本来の黛由紀江の顔を見せる。

ただそれが逆に、笑顔を「怖いもの」にしていた。単に作り笑顔がウルトラ下手なのか、それとも、その”礼”を心がける堅さが笑顔を怖いものに仕立て上げてしまうのかは分かりませんが。まゆっちシナリオ後半で、まゆっちの「普通の笑顔」に対して、大和が「可愛い」「はじめからそれなら友達が沢山できた」と述べていまして、それに続くやり取り。 由紀江「意図はしてないんですけどね」 由紀江「大和さんは、緊張する必要がないからかも」 大和「まゆっち自身、結構心の壁があったのね」 。先の引用文と合わせれば、”礼”としての作り笑顔、彼女の姿勢としての作り笑顔であり、それは本来の黛由紀江を封印した「心の壁」の外側のものであった――その「心の壁」というのは、たとえば序盤で、風間ファミリーのみんながまゆっちの「余所余所しさ」に対して怒ったように、顔だけに及ばず、彼女の人付き合いの姿勢全体に及んでいたでしょう。ひるがえればそれこそが、彼女の持つ「礼」であった。

彼女たち全てがそうです。
「自分が自分である(こうである)」がゆえに、ここまで進んでこられた。そして、自分がその在り方で生きてきたゆえに、今、このような問題に直面している。そして、今直面している問題というのは、「自分が自分である」だけでは、乗り越えられない――あるいは上手く行かない、問題である。それを、大和だったり風間ファミリーだったりのみんなとの間で、乗り越えていくわけですね。といってもそれは単純に問題を消し飛ばすという越え方ではなく、「彼女たち自身」のその姿勢に変容を加えて、乗り越えていくという形であった。ワン子なら、ひとつダメでも次のに向かえるという、それまでとは少し違う彼女の「勇」の形、京なら、既にある愛の対象だけでなく外にも仁を向けられるという「仁」の変容、まゆっちなら、自分自身を見せながらも礼を貫き通すという、新しい「礼」の在り方。もともと彼女たちが直面する問題というのが全て、”彼女たちがそうであったから”ぶち当たった問題――遅かれ早かれいつかはぶつかる問題、そして根本的な解決をしなければ何度でもぶち当たりかねない問題――であるからこそ、この解決も、そして個別ルートでこういうことが起こるのも、すべて十全といえるでしょう。

ここにおける最大の特徴として、己一人で自分自身を自己超克していく形ではなく、他者との間で自己超克していくところが挙げられるでしょう。単に「仲間に助けられた」ではなく、「自分自身が変わった」というところです。ただ「変わった」といっても、元々から全くの別物になったのではなく、他のやりかたを見つけたり、頑ななのを和らげたり、柔軟になったり、欠点を補う(発見する)といった、「元々」を少し「ずらしたもの」になります。そしてその形は、「元々」でぶつかる問題を、「元々」では敗れてしまう壁を、乗り越えられる力を持っている――つまり「元々」の自分を越えているわけです。先に書いたような、「元もとの自分のありかた」を、仲間だったり地域だったり、あるいは川神魂だったりというものに照らし合わせて、徹底的にずらし、深化し、強化して、自己超克している――というのが個別シナリオです。全てそのパターンの変奏、全て自己のありかたの変化における自己超克の可能性を示したものである。


で、話を戻しますが。個別シナリオは、その先で「旅立っている」のに対し、ラストシナリオはそういうこと無しで「旅立って」います。「成長」というと多少齟齬ありますが、いわゆるその個々人の「成長」のようなものが無い。ただし風間ファミリー自体の「成長(←齟齬あるけど)」は見せてるわけで、だからエピローグ(=未来の姿)は必要ない、それがなくても、彼らが明日に向かって、大和が冬馬とユキと純が仲良くしている姿を幻視したように、彼らもまた時が経っても仲良くしていることを、私たちが幻視できるから。
ともかく、各ヒロイン、その「成長」のようなものがなくても「旅立っている」わけで、また大和自身も、キャップやガクトやモロも、「旅立っている」わけです。このようなラストシナリオであろうと、あの個別シナリオであろうと。

「旅立つまで」という観点からすると、つまりは「なんでもいっしょ」なわけですね。ちょっと言い過ぎな感じもしますが、たとえば犯罪者になったり、事故で大怪我したり大病を患ったりとかない限りは、描かれた個別シナリオやラストシナリオ以外でも、たいていの場合は、「旅立っている」わけです。
だから、真剣で私に恋しなさい!は、「旅立つまでを描いた」わけでも、「旅立つとはどういうことか」を描いたわけでもない。ただ、”結果的に旅立っただけ”である。だいたいのものなら、何であろうと「旅立つ」のだから。どのシナリオ選んでも。どのシナリオ選ばなくても。しかも、「仲間」との関係もほとんど維持できたままに。

「旅立つ」を、「大人になる」や「卒業する」に置き換えてみるとわかりやすいでしょうか(ここにおける意味はどの言葉もほとんど同じです)。よっぽどの可能性に至らない限りは、どこを歩もうが、それまでがどんな中身だろうが、彼らは「旅立った」し、「大人になる」し、「卒業する」。その時がくれば、そうならざるを得ない――そして実際に、作中では、”その時がきたから(時間が要因として)”それを迎えているわけです。どうして学校を卒業するかというと、3年間通ったからです。この祭りが何で終わるかというと、終了時刻が来たからです。

だから、『真剣で私に恋しなさい!』は、「旅立つまでを描いた」わけでも、「旅立つとはどういうことか」を描いたわけでもなくて、ただ、”結果的に旅立っただけ”である。だいたいのものなら、何であろうと「旅立つ」のだから。どのシナリオ選んでも。どのシナリオ選ばなくても。しかも、「仲間」との関係もほとんど維持できたままに。

そしてだからこそ、この中身なのです

終わりはいつか必然で訪れる。それまでの間に成長を遂げていようともいなくとも、夢を見つけていようといなくとも、全ては時間切れのように終わってしまうのです。だから、旅立つ・大人になる・卒業するという観点からは、そこまでの日々――終わるまでの日々は、なんだっていっしょなのです。どちらにしろそこに至るのだから。そしてだからこそ、このゲームは、この中身なのです。

終わりに至るまでの道はどれであろうと等価である――だからこそ、価値がある
それまでの道が、”何であろうと終着点(終了時刻)に来れば終わる”のだけれど、しかしそれでも、その終わるまでの道次第では、自身が変化や成長を遂げるだろうし(個別シナリオのように)、その先にも残り続けるだろう(ラストシナリオの最後の「おう!!」という返事や、川神魂のように)。

なんであろうと同じだからこそ、少しでも残る・続くものを見つけたり、少しでも楽しんだりする。そういう素晴らしさがここにある。それが『真剣で私に恋しなさい!!』です。なんであろうと同じ結末に至る道なのだけれど。その道で得るものが自分に良い変化をもたらすこともある。その祭りのように楽しかった道が、明日へと進む力になることもある。
そういうことなのです。このゲームが、ギャグ満載で、楽しくて、キャラが多くて賑やかであること、その利点もそこで、そして、”そうでなくてはならなかった”。そういう意味ではタカヒロさんや、他の一部の人間にしか、このゲームは作れなかったでしょう。全てが等価であるからこそ、だからこそ、楽しくて、笑えて、賑やかな時間になっている――それを求めるものである必要があったのです。