今度こそ……「マジ恋」感想

昨日挙げたのがあまりにも言葉足らずだった気がするので、もうなんかアレをあれしてそうする。

以下ネタバレ。最終シナリオまでやってからね。


自己のありかたを巡る物語としての是非

この物語は、一言でいうと、「自己のありかた」を巡るお話。

「川神百代3年、武器は拳1つ。好きな言葉は誠」
「川神一子2年、武器は薙刀。勇気の勇の字が好き」
「2年クリスだ。武器はレイピア。義を重んじる」
「椎名京2年弓道を少々。好きな言葉は仁…女は愛」
「1年黛由紀江です。刀を使います。礼を尊びます」

彼女たちの性格・性質・姿勢的なものは、まず最初からはっきりしています。姉さんの誠、自分への実直さ、すなわち真剣さ。一子の勇、勇猛果敢、引かず諦めず走り続ける姿勢。クリスの義、ルールや規則、自らが正しいと信じることの絶対遵守、自らの信じるものを貫き通す。京の仁・愛、大和への、そして仲間への愛の深さ、そしてその姿勢を持ちえている故彼女は、その対象を周りにも広げることができる。まゆっちの礼、他者への礼が逆に自らを堅くして、人付き合いが上手くいかないほど。
それらが……獲得したものであるのか、生まれ付いてのものなのか、いずれにせよ「性質」と呼べるくらい深く根付き、彼女たちはそれを貫き通しつつも、また、(その枠内において)変化もしている。たとえばクリスに柔軟さを、京には他者にも向ける仁を、一子はひとつの目標が潰えても、別の目標に向かえるという勇を。
彼女たちの、「自分自身とは何なのか」が、まず、ここにあります。彼女たちが自己認識する、「私はこうある」という、ソレ。そしてそれは変わっていく。その変化は大和含めた仲間があり、起こり得たものですね。
それらは、大和自身にもいえる言葉です。というか、だからこそ、大和自身が(彼の進路が)各シナリオ毎で変化が生じる。姉さんシナリオなんかが最も象徴的でしょう、夢・目標を軸に、各シナリオごとで、大和の「自分はこうある」というのは変わっていくのですが、それもまた、彼女らに触れることで変わっていったもの。大和の「自分のありかた」というものが、関係の内で変化(ここでいう変化とは修正・成長・喪失などの、元からあったものに対する可変性において)していく。それはエピローグで提示されているように、大和のみにあらずですね。変化における他者の存在は、各キエピローグで示される各キャラの進路の僅かな誤差、その元となった出来事や、その元それ自体としてもあるでしょう。


自分と自分における自分のありかた。

エロゲにおいては、いわゆる「燃えゲー」と呼ばれるようなものが、ひとつ顕著だったでしょうか。たとえば『Fate』や『デモンベイン』なんかを見てみると、主人公の士郎くんや九郎くんなどは、「自分のありかた」というものを、ある種”ゆずれないもの”として持っていた。それは「自分と自分における(つまり「自分―自分」)」関係の中で閉じていたものでありました。

たとえば『Fate』の衛宮士郎は、「正義/正義の味方」を目指しながらも、決して”社会正義”みたいなものを目指さなかった。社会正義や一般的な正義、あるいは損得観念からの正義、さらには道徳的な正義も、決して目指していなかった。それはなぜかというと、そういう正義というのは、そのありかたの上での正義でしかないからです。つまりですね、社会正義を目指すというのは、「自分と社会における自分の正義のありかた」を目指すということだからです。そこには”社会”が混じりこんでしまいます。同じように、道徳的な意味での正義を目指すならば、「自分と道徳における自分の正義のありかた」を目指すことになる。それは社会通念上、あるいは道徳上認められるものかもしれませんが、しかし必ずしも、自分自身が認めるとは限らない。彼にとっての「正義」「正義のありかた」というのは、社会プラチック・道徳プラチックでは決してなく、ただひたすらに自身に――あるいは自身の過去や、自身の憧れたものに、向かっていくものである。つまりそこにおける正義は、「自分―自分」の関係の元でしか、見い出せないワケです(※少し簡略化していますが)。「正義」に関しては、「自分と自分における(自分の)正義のありかた」だけがただ、焦点にある。だから社会正義だの道徳上の正義だのというのは、論点の外になるわけです。

また『デモンベイン』の大十字九郎も、自身のありかたは、何に担保されるものでもなく、ただ自身に担保されるものとしてあった(※メタ的な要素によりそれらもまたコントロールされている可能性を考えないと仮定した場合)。たとえばマスターテリオンに、あるいは自分の無力さに、「許せねえ」と彼は震えるワケですが、これは別に社会的に許されないから許せねえワケでも、道徳的に許されないから許せねえワケでもない。ただそういうの関係なく、自分自身がそれを許せないから、「許せねえ」ワケです。たとえばこれ、九郎にかかる重みが同じであれば、敵がマスターテリオンじゃなくて全然違う奴でも、無力さが身を切る状況がそれとは全然違う状況でも、彼は同じく「許せねえ」となったでしょう。自身において、自己の規律・感情において、これは許せない。「自分と自分自身における自分のありかた」として、マスターテリオンや自身の無力さを許容することができないから、彼は許せねえワケです。

これらはどちらも閉じています。外部要因は促がすものやきっかけ・影響にはなれど、「○○における自分」という「○○」に、その自分に、自己が揺るがされない。外は影響を与えても、究極的には、「自分―自分」における「自己のありかた」、つまり自分自身で閉じていた。
だからこそ、逆説的に、自己内で自分のありかたが完結することが多い「燃えゲー」(←便宜的な名付け)的な物語は、自己超克的なものへと導かれやすい。自分における自分をずらしていく自由プラチックからはじまり、その「ずらし」を再帰的に強化・深化させることによって、もともとの「自分」を超克していく。


それに対し、『真剣で私に恋しなさい!』の場合は、「自分」以外の人々の存在が大きく絡まる。ボクとしては、なんとなく「ネットワーク性」とか呼びたいところでもあります。ここで『Fate』『デモンベイン』を引き合いに出したことも、ここ以降なんとなく『リトバス』にちょくちょく言及していることも、ボクが勝手に思うあるエロゲ史観からの導きなのですが(もちろん、前者に関しては単純に対照的であるという面も含みますが)、その辺、細かい話は、いつかの機会に回すとしまして。
真剣で私に恋しなさい!』(同じくネットワーク的な『リトバス』なんかも近い)においての各キャラクターは、自分―自分として見つめた「自己のありかた」を”前提とした上で”、さらに仲間に置かれた自分、「自分と仲間における自分のありかた」を、自らのありかたとしている。これらは先に挙げた「燃えゲー」的な自己超克とはまた異なった自己超克です。先のが、徹底した自己の深化と強化によってなされる自己超克ならば、こちらは、そもそもの「自分のありかた」自体を、仲間におけるや地域におけるなどを用いて、徹底的にずらし、深化し強化して、自己超克している――あるいはその可能性、第一歩を見せている。
それはどういうことかというのは、まさに、個別シナリオが語っています
まず彼女たちが「自分と自分における」自分のありかたを持っていた、と先に語りましたが、それ自体は万能ではない・完璧ではないということが、個別シナリオで示されていました。まゆっちのその「ありかた」では友達はできない、京のその「ありかた」では外側でまともに生きていけない、一子のその「ありかた」は師範代になれないという挫折を味わう、クリスのその「ありかた」はそうそうに険悪になったように周囲と軋轢を起こす、百代のその「ありかた」は、一人では永遠に満たされない。
「ひとり」では負けるものにも、「みんな」における自分という対象ならば――自分自身をそれで、変化して、強化して、深化して、ずらしていけば、勝ちは掴め得る。個別シナリオは、(言い方はアレですが)全てそのパターンの変奏、全て自己のありかたの変化における自己超克の可能性を示したものである。

神大戦であろうと、カーニバルであろうと、……いや、普段のありかたからして、それぞれが「役割・役目」のように、振り分けられていました。「ひとりで全て」ではなかった。そしてそれゆえに、たとえば大和が、あるいは誰かが、「みんなのおかげで今、ここにいる」と述べたり、実感したりするように、仲間に助けられる――助けられる余地が生まれる。「仲間と自分における自分」というものがあるから、「自分と自分における自分」、つまり自己完結的に、自己を見つめて、そこから生み出した「自分」だけではどうしようもないことや、厳しいことや、大変なことを、乗り越えていける。……これは、こういう言い方はあまり好きじゃないですけど、そのまんま、社会などの、この先にも通じている話でもありますね。自分で完結する自己のありかただけで、自分の世界は完結しない。広がっていく。先に挙げた燃えゲー的主人公のように、社会や普通を超越しすぎて、「たったひとり」で生きていける・生きていくものならば、あるいは、社会や普通を超越した者達の中で生きていくのならば、それでも構わないけれども。「仲間」というネットワークは、決して社会の縮図でも、モラトリアム下における社会の練習台でも決してないけれども、それはネットワークゆえに、構造的には他のネットワークにも敷衍しうる。

ネットワークの終わりは常に「時間切れ」である(あるいは本当の終わり(=死)、そのどちらか)。外部に通じるところがない、構造は外部に移行できない、理想が潰えている(達成されている)のがその特徴。外部にはネットワークを”そのままの形では”引き継げない――翻れば、ネットワークの形が崩れる(あるいはネットワーク自体が崩れる)ときこそが、その終わりである。『真剣で私に恋しなさい!』はまさに「時間切れ」で終わる。
その未来を輝かせるために。俺達は、それぞれの第一歩を踏み出した。【ラスト】
たとえば『リトバス』なんかもそうですね、麻枝さん最後の方を周囲に言われてシナリオ変えたというから、微妙ですけど。その辺の補填は沙耶シナリオで為されていましたが。とにかく。時間切れで終わりということは、逆に、”この形式にこだわらなければ”、継続は可能だということでもあります。終わる要因は形の維持の不可能性だけであって、だから、各エピローグで語られているように、どのような道を歩いても、彼らは、友達で仲間で、風間ファミリーであり続けることができたし、ラストエピソードの最後の方では、ユキと葵と準が、また仲良く歩く姿を(その形式は学園時代のそれとは異なるけれども)、自然と想像することになった。彼らは大和たちとは全てが表裏一体、特に方向性が表裏一体なのは語られていましたね。悪事に走り、もはや破滅でもいいので”徹底的”の、戻れないところに進みたい冬馬と、その裏側の大和。友達を引き止められない準と、その裏側のキャップ。壊れたユキと、その裏側の京。彼らは、風間ファミリーの裏側、つまり、風間ファミリーの「ありえた姿」。それは、ひとつを除いて全てが異なります。そのひとつというのが、友達、仲間、友情、その関係、ネットワークですね。冬馬たちは、たとえ何であろうとその関係を続けることができるという事実は、一度離れ離れになっても、まだその関係を続ける(再開する)ことができるという想像は、風間ファミリーもまたそうであるということを証明しています。

そしてそれは、どこまでも続くからこそ、彼らの自分のありかた、その自己超克性を担保し続けている。
形式を変えれば、関係は残り続けられる。あるいは、たとえば現実的な話をすれば、彼らはこの先、別の形式の別のネットワークに踏み込むことになる。
たとえば、仲間という存在が、「仲間と自分における自分」というものを獲得させ、自己完結の自分では敗れえるものを超克できる力となったり。
たとえば、川神魂というものが、「川神魂と自分における自分」というものを獲得させ、自分だけでは諦めたりくじけたりするところで、もう一歩を踏み出させたり。
「自分ひとり」の外に広がるネットワークが、その自分を超克させる自分を獲得させてくれる。

たとえば、大和が「いつかキャップを倒したい」と言いながらも、決してリーダーに”なれず”いつまでも軍師なところとかも、(言うなれば)仲間プラチックとしての、「彼のありかた」のひとつ。それぞれがそれぞれであるということ。大和くんは大和くんとしての自己超克にしかないわけで、ゆえに運命的な何かでもなく、己の血や才能や異能に目覚めるのではなく、つまり天から放られるように「自分のありかた」が授けられるのではなく、ドラマチックに、天啓のように「自分のありかた」が訪れるのではなく、「自分と自分における自分のありかた」を、「○○(たとえば仲間)と自分における自分のありかた」などの内で、ずらして、深めて、強めて、獲得していくのみである。
だからこそ余計、プラチックは外に広がるわけです。自分だけ完結する「自分のありかた」というのは、格好良いかもしれないけど、現実的ではない。異能や超人のように――あるいは、たとえば川神百代が、戦いの獣と化していたら成り得たかもと想像できる道のように――現実の中では生きていけない。現実に敗れかねない。まさに、ワン子やクリス、京にまゆっち、姉さんが、そうであったように。だから「仲間」という、彼らと過ごす日々という、終わった後に「祭り」と思う時間があったのだ。

楽しかった想い出はそれぞれの胸に秘めて。
その未来を輝かせるために。
俺達は、それぞれの第一歩を踏み出した。
キャップ「よーーーし!!」
キャップ「日は落ちて、祭りは終わった」
キャップ「進もうぜ! 明日へ! 勇往邁進だ!」

そしてそれはたとえば「川神魂」と同じで、どこまでも続いていく。たとえば、ここでは、「明日へと勇往邁進する風間ファミリーと自分における自分」という<自己のありかた>が生まれ、そしてそれ故に、キャップが云っているように、明日へと勇往邁進できるのだ。「楽しかった想い出はそれぞれの胸に秘めて」というけれど、「日は落ちて、祭りは終わった」というけれど、……胸に秘められるだけの楽しい想い出があれば、祭りであったことが分かるだけの祭りがあれば、それだけで「川神魂」と同じく、無限の力が湧いてくるんじゃないだろうか。そこにある「自己のありかた」が、祭りが終わった後に、明日へと、自らの歩を進める力となるのです。

だから。この物語は、一言でいうと、「自己のありかた」を巡るお話。

旅立つ子供たちの物語としての可否

本作を「旅立つ子供たちの物語(旅立つ子供たちというオチ)」として読むことはできない。実際に旅立っているのですが、それはただ、そうであるだけでしかない。

……「旅立つ子供たちの物語」として読んでしまうと、交換可能になるというか、極論、そこまでの全てが無意味になる。なんでもよくなる、と言い換えた方が正しいでしょうか。各エピローグで彼らの旅立っている姿が語られているように、たとえばそれは別にラストシナリオでなくても、彼らは「旅立つ」。つまり、大抵の可能性なら、彼らは「旅立って」、風間ファミリーの友達としての関係も続いているだろう、と予測される――つか、個別シナリオで、それがある程度、実証されているのです。
ということは、「旅立つ」という観点だけからみたら、「どれでも(ほぼ)一緒」ということになる。彼らは大抵の可能性ならどうだろうと旅立って仲間のままゆえに、まじこいを「子供が旅立つまでを描いている」と読むと、イコールで「中身がない(中身がどれでもいい)」となってしまう。

そうなのだから、ここはその中身を読むべきでしょう。それが丁寧に折り重ねられているのだから。関係性というのは自らのありかたの「新たなるもの」を生み出し、それが「今までの(自分ひとりでの)自らのありかた」では敗北してしまうものを乗り越えさせてくれる(個別シナリオは全てそういう話ですね)。そしてその経験、それ自体が、川神魂のように身となり肉となる。

だから、真剣で私に恋しなさい!は、「旅立つまでを描いた」わけでも、「旅立つとはどういうことか」を描いたわけでもない。ただ、”結果的に旅立っただけ”である。だいたいのものなら、何であろうと「旅立つ」のだから。どのシナリオ選んでも。どのシナリオ選ばなくても。しかも、「仲間」との関係もほとんど維持できたままに。

「旅立つ」を、「大人になる」や「卒業する」に置き換えてみるとわかりやすいでしょう(ここにおける意味はどの言葉もほとんど同じです)。よっぽどの可能性を選んでない限りは、どこを歩もうが、それまでがどんな中身だろうが、彼らは「旅立った」し、「大人になる」し、「卒業する」。その時がくれば、そうならざるを得ない――そして実際に、作中では、”その時がきたから(時間が要因として)”それを迎えている。祭りが何で終わるかというと、終了時刻が来たからです。ネットワークの終わりというのは、時間切れでしかないのです。
ただ、その中身次第では、自身が変化や成長を遂げるだろう(個別シナリオのように)。ただ、どうせならば、それが素晴らしい中身ならば、その先にも残り続けるだろう(川神魂のように)。

ただそれだけのこと。終わりはいつか必然に訪れる。しかし、その”終わるまでの中身(終わるまでの日々)”は千差万別で、そしてそれは、「終わった後」にも続いていけるものでもある。その中身で得るものが自身を変え、その中身が素晴らしければ、その先の自身も変わるだろう。その中身が祭りのように楽しければ、明日へと進む力にもなるだろう。そういうことである。ゆえに、このゲームは、楽しくて、笑えて、賑やかなものであったし、そうでなくてはならなかった