「けいおん!!」第1話の感想

ついにはじまった『けいおん!!』なんですが、最初視聴したときに、このアバンが微妙に第一期の第一話アバンを彷彿させるなぁと思いまして。


目覚ましどおりに起きたのに、時間を勘違いして(間違って)、ジャムを付けた食パンを咥えて、桜も舞う道を駆けていく唯。ムギや澪たちとすれ違うけど、当然面識はないから声すら掛けるわけがないし、またムギと澪たち自体も面識がないので、一緒に登校したりなんてことはなく、バラバラに登校する。


目覚まし時計を見間違えて、一時間早く登校。それでも、桜舞う道を駆けていく。今回はカバンだけじゃなくギターも背負っています。ジャムを付けた食パンは咥えてきたのか持ってきたのか不明(だけど手で持ってというのは考えづらいかな)。今回は学校に着いてから食べます。二年前はバラバラに登校していた澪たちも、出会えば一緒に登校している。

こう、微妙に同じ部分を加えて、変化や差異が匂ってくる感触がありました。本編の方でも、二年前は全く体験入部しなかった唯と、事情があるとはいえ体験入部しまくっている今の唯。新入部員を部室で待つ姿(一期第一話で唯に関してはそうではありませんでしたが)。「何かしなくちゃいけないような気はするんだけど……いったい何をすればいいんだろう」と、変化への焦燥に(唯なりに)駆られてた二年前と、「今はずっとこの5人でいい」と変化しないことを望んだ今の唯。などなど。
けいおん!(第一期)第1話と、けいおん!!(第二期)第1話、微妙に照らし合わせられる感じ、対称や参照になれる感じのリンクが、やんわりとですが、見えるように思いました。


で。「だからなに?」と思われるかもしれませんが。
うん自分でも「だからなに?」と思ったんだけどねー、考えても答えが出ないというか、これ実は何でもないんじゃないかなーと思って。

けいおん!』の面白いところとして、個人の価値観としてのものを別として、審級を作品自体に置いた上で、「○○が優れてる」とか「××が劣ってる」とか言わないし、そもそも二頂対立的にもあまりならないところがあるかなぁと思うのです。たとえば、同じく京アニで四コママンガ原作の『らき☆すた』は、二頂対立的な構図が結構激しい。そもそも第一話の「チョココロネ」の話からしてそうですね。私はこっちから食べる、わたしはあっちから食べる、私はこっちが頭だと思う、わたしはあっちだと思う、というように、それぞれ別々の意見・価値観を表明している。そういう風に、相対化され、二頂対立的構図になっているのですが、しかしその構図が出来上がるだけで、そこに何の判断も下されない。こっちが頭の認識が正しい、こっちから食べる方が効率的だ、こっちのが多数派だ、みたいな、その対立に対する優劣が付けられることはない。かといって意見が一致することに価値が見い出されるのかというと、そうでもない――「頭」の認識に対してこなたとかがみが一緒だと分かったときに、逆光にしてそのシンパシーを強調するのだけど、食べ方は逆と分かると、すぐに「へー」と流してしまう(そこで無言になるのだけど、そこに気まずさも残念さも(視聴者が勝手に読み取る残り香程度のモノ以外には)微塵も存在していないのが、本当に面白い。わざわざ想定線越えて、逆光まで使ってるシンパシーだったのに、ホントすぐにどうでもいい扱いになってるのです。つまり、「他人と同じ」に、大した価値を見い出してない)*1
こなたのオタク話――かがみの非オタ反応とか、そもそもかがみを介さずとも「オタクはこうだけど一般人はこうじゃない(あるいはその逆)」みたいな会話も結構ありますね(その点は原作の方が傾向強いですが)、しかしそこに、どうするべきだ・何が正しいのか、なんて価値判断は殆ど存在しない。こなたの影響で誰かがオタクになることもないし、かがみの影響でこなたがラノベ好きになることもない。たとえば、他人のことを羨むみたいなのが、ゆたか→みなみくらいで殆どない。しっかりもので努力家の双子の姉と天然マイペースの双子の妹を多少なりとも相対化するのに、どっちが優れてる・どっちが劣ってる的な優劣を付けることがほぼ全くない。相対化・二頂対立構造まではしても、そこに解答を用意しない。

それに対し『けいおん!』では、優劣を付ける解答を用意しないのは勿論、そもそも二頂対立的にすらあまりならない*2、あるいは軽く流したりネタとして流したりするという対処を取ることが多いです。なんか勢いで『けいおん!』第一期を全話見返しちゃったのですが、そこには対立構造の上で優劣を付けるということがほぼ全く無く、そもそも対立構造自体が予想以上に少なく、あっても個人の趣味趣向で収まるか、あっさりと流すか、ネタとして扱うか、そのように対処されていました*3。作品の論理として価値判断は設けていなかった。第9話のあずにゃん入部直後の回が、対立構造の強い唯一の例外としてあるくらいで*4

だから、この第一話の過去とのリンクも、たとえば「成長」という一言では言い表せないのではないかと。成長というからには、「以前よりも今のが良い」という優劣がそこに働くものなのに、しかしこの『けいおん!!』には、過去を否定する言辞がない。成長とは、現在と過去を相対的に見ると、過去に対し否定の力が働くものなのに、しかしそんなものは殆どない。過去を否定するイメージがない。現在を肯定する向きには溢れているけど。第一期第一話と共通項があり、その中で差異があり、それぞれ相対化されるんですけど、「そこまで」に思えるんですよ。たとえば、桜を拾っている唯が、非けいおんメンバーと仲良くしている(ぽい)ように、唯にもいつの間にか友達ができているし、たとえばあずにゃんの友達の子(純)が、まるでいつもやってるかのように紙パックの自然にジュースを差し出して、それをあずにゃんがまるでいつもやってるかのように自然にストローに口をつけていて――つまり、たぶんいつもやってることなんでしょうが、そのように、いつの間にやら仲良くなっているように。それぞれに変化がある。1年も経ってるんだから当然だけど。しかしそこに、価値判断的な回答は提示されていない。並べて示すけれど、そこにいかなる価値判断も介在していない。変わってはいるけれど、以前より今の方が良い、という判断は下されていない。否定はされていない。何ひとつ。―――それは、以前は以前で良く(認め)、今は今で良い(認める)、という、それぞれが独立された上での肯定ではないでしょうか。
たとえば第1期最終回(文化祭の回)では、自宅に忘れたギターを急いで取りに戻った唯が、入学したての頃の自分に、その時を非常に彷彿とさせる映像の中――つまり相対化された中、「ねえ、わたし」と語りかけます。あの頃は、何かしたいのだけど、何をしていいか分からない、という焦燥に溢れてたわたしだけど、でも大丈夫、大切な場所がきっと見つかるよ、と。それはあの頃の自分自身に送るエールのような言葉だったけれど、しかし、あの頃の自分を否定しているわけではない。
相対化した上で(そもそもあまり相対化しないのだけど)、どっちが優れてるかといった価値判断は提示しない。それは個々の価値観や信条のみならず、今の自分と過去の自分においても。これが意味するところは、否定がないということは、無駄も無意味も無価値も、ここにはまったくないということです。特に中身のない会話も、無駄に思えるような時間も、まったく否定されていない。だから「けいおん!」は素晴らしいなぁと、個人的には思うのです。

*1:昔書いたように、これってカメラが見い出してる価値じゃね?って話でもあるんだけど

*2:もしやったらリアルに蛸壺屋になっていたのではないだろうか……w

*3:しかし自分が一年前に書いた感想読んでみたら(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090625/1245870020)、その辺のことちゃんと書いてあってびびった。すごいぞ一年前の自分ー、というか今の自分やばいぞw

*4:個人的に第9話は「けいおん!」で唯一苦手な回でしたが、逆にその理由が明らかになったり。