現実と虚構の境界が揺らぐことについて

メモ。


・虚構は現実を模倣している。
・いや、模倣していなくても、人が作り出した全ての虚構は、人が現実に生きていて色んなものを感じ取っている以上――てゆうか人は"現実しか"認識出来ない以上(創作物を見たり読んだり聞いたりしているのも、全て現実の中での出来事。想像や空想も、現実にそれを行っているから認識出来るものであり、現実に"行われていない""存在しない"ものは認識することは不可能。つまり、ない)*1、虚構には現実という要素が介在する。もっとぶっちゃければ、人が認識できる時点で、現実が内包されている(認識プロセスに乗るだけのものが(言葉でも視覚情報でも何でもいいけど)、そこに存在しているということ)。

・現実が虚構を模倣している
分かりやすい喩えなら、創作物から影響を受けての犯罪とか。何かの映画や小説に感銘を受けたとか。自己啓発本に発奮させられたとか。影響の度合いにより、トレースの度合いも変化する(勿論、元となるものと現実との相性問題・実現可能性問題もある)。
・模倣していなくとも、『影響』というものの存在は皆無ではない。たとえばなしだが、何も得るものがない本を読んだとしても、しかも開始1ページで読むの止めたとしても、それを読んだ時間――1分だか10秒だか――が現実から失われたという意味では、影響を有する。まあ前記は言葉遊びだが、たとえどんなくだらなく些細なことでも、知覚にも自覚にもほど遠くても、ほんのちょっとした、ちょっとし過ぎた影響ならあるのではないだろうか。


つまり、影響度合いと、現実との相性・実現可能性、つまり現実的である――虚構に対する距離感を忘れさせるものである、ということ(リアリティとニアイコール)なのだが、現実と虚構が揺らぐ要因についてもっとも肝要なのは、現実も虚構も認識しているのはひとつの同じ自分の脳みそだ、ということ。現実用の脳、とか、虚構用の脳、とかを人は有していないし、虚構に触れてきた経験から仮想的にそのようなもの(脳というより意識か)を構築している人もいるだろうが(意識であるならば、かなりの人がそれを有していると思われるが)、それを瞬時の判断で意図的に完璧に近く切り替えることが出来る人は、かなり少ないのではないだろうか。そこまで自分の脳も意識も、自身でコントロール出来る人は少ないだろう。


これ書いてたら思い出したのだけど、昔パーマンごっことか言って2階のベランダからパーマンバッチとマント着けて飛び降りて骨折った友達とか、飢狼伝説ごっことか言って教室のロッカーの上からクラックシュート放って骨折った友達とか、いた。

*1:なんかこの辺齟齬が生じそうだけど、放置