恋愛ゲームは本当に現実の恋愛の代わりなのかに関するメモ

ある作品やジャンルなどに見出せる特徴が、そのまま、受け手の受容の理由になるとは限らない。
や、当たり前のことなんですけど、混同してしまいがちなので、メモっておこうと。


何となく、漠然とは考えていたのです。
例えば「恋愛ゲーム(ギャルゲー・エロゲー)を現実の恋愛の代替として行なう」とかは、何か違うんじゃないかなと。確かに恋愛ゲームは、擬似恋愛的な部分もありますし、その物語の受容はある意味現実の恋愛を越えている部分もあると思います。現実の恋愛の代替として人によっては機能しうるだけの特徴を有している。だけど、だからといって、みんながそれを目当てにやってるわけじゃないし、そういう特徴が、受け手みんなに作用している(自覚の有無に関わらず”意味している”)とは限らない。



この前買った『腐女子の履歴書』という本(同人誌)を読んで、その辺の考えが纏まりました。
いわゆる腐女子、ならびにそれに近い方20人以上が、やおいやBLを如何に受容し、またその魅力や自分が惹かれる部分はどういうところか、などが記されている本なのですが、その受容、包括的鳥瞰的に見れば、ほぼ全員に通低する特徴がある。しかしそれが、各々にとってそれを受容するに足る理由――ある程度以上の数をある程度以上の期間継続的に受容し続ける――つまり、何らかの形で何らかの意味で”必要としている”――その理由には、成りえない。というか、全然足らない。
もっと色んな細かい理由とか、個人的な経験とかが、あるいはどうでもいい気まぐれとか偶然の巡りあわせとかが色々あって、それで、深く受容するに至っている。


では、恋愛ゲームの話に戻って。
勿論、それが『フィクションである』という事実には、現実には無い――あるいは現実にある――何かを、そこに仮託したり投影している可能性は非常に高いでしょう。しかしだからといって、一番の特徴である部分(恋愛)がそれに中るかと言うと、必ずしもそうとは限らないでしょう。
「現実に恋愛できないから恋愛ゲーム」などという言説は、恋愛ゲームの特徴を逆順に受容者に当て嵌めたにすぎない。そんなこと言ったら、現実に飛行機乗れないからエースコンバットだし、現実に魔王倒せないからドラクエじゃないですか。しかし実際は、そうとは限らないでしょう。その特徴は、第一義的だったり、全体に対し支配的なくらいに目立つというだけで、受け手にとって作品の、全体・細部、全てのシニフィエが、それで統一されているわけでも、その色に染まっているわけでもない。(ギャルゲーの恋愛とかドラクエの魔王とかエーコンの飛行機のように)目的だったり根幹だったりするから、ある程度全体における通低はあるけど、しかしそれが果たして、全ての意味までも染めてしまい、全ての意義まで作りたて、全ての理由の根底と成りうるものなのだろうか。

いや、果たしても何も、そんなわけないじゃんと思うのです。
勿論そこには(ギャルゲーだろうがドラクエだろうがエーコンだろうが)、何らかの仮託・投影は確かにあるでしょう。しかしそれは、もっと無駄なくらいに細分化してると思うんですよね。だって例えば、ジャンルや、個別の作品を、いくら分析して解析して読み取って、こういう理由でこういう作用がある、という正当を明らかにしたところで、受け手は一人一人自分でもってして受けて、精緻に言えばどんなものでも、その正当とも他人とも、別々の意味解釈を行っている(自覚の有無に関わらず”その正当が見えている(意味作用している)とは限らない”し、作用してたとしても、意義や意味や効果の大小強弱もまた個々に帰す)のですから。

(……とか言いつつ何か全然足らないので続く。もしくは続かない)