キャラクターの偏在性に関する(以下略

大雑把な思いつき。ギャルゲ・エロゲ(というかビジュアルノベル・アドベンチャー形式のソレ)の(基本主人公以外の)登場人物に対し読み手は内在された偏在性を感じ取るんじゃないかという。
ビジュアルノベルやアドベンチャーのキャラクター描写には、ある種の不可視性が働いている。
ゲームにもよるけど、たまにありますよね。画面に映ってないキャラが喋るという状況が。
画面に映っていないけどそこに居ますよ、という状況ならもうしょっちゅうありますよね。例えば画面に最大2人までしか表示されないゲームで、(主人公抜かして)3人以上が集る場面なんかだと、必然的に1人が表示されなくなります。
この瞬間は、ある種の不確定状態でもあると思うんですよね。表示されていないキャラクターは本当にそこに居るのかどうか、という。僕らはその状況を、「画面に表示されてなくてもホントは居るよ、仕様の関係で出てこれないだけだよ」と読み取ることができる――お約束的に読み取ってしまう――のですけど、これはそうコード化されているだけでもあって、実際に彼(彼女)がそこに居るかどうかは確認不可能な、不確定な状態でもあると言えるのです。

そこを逆に生かしたかのような、『居ないはずなのに居る』という状況も稀にあります。「そこに○○が居る」という描写はされてないのに、「実は居た」という。極端な例だと、浮気の場面とかで、自分たち以外は誰も居ないように描写されておきながら、実は(浮気相手じゃない方の)彼女が居た、一部始終見てた、そして修羅場へ……みたいなのとか。
特殊な形式のゲームや特殊な立ち位置のキャラクターだと、もっと大胆に、システムのように現れる偏在性(例えばリトバスにおける恭介とか。彼の口調でのシステム的な呼びかけは、彼の偏在性・全知性・全望性・全能性を強調している)とか。この辺はその観点の極北ですけど。


ノベルゲームの画面に表示される情報は、眼には遥か及ばなくてカメラとしても足りなすぎるもの。然りして、そこの情報からは不可視の領域が非常に多く(眼と文章の間に大きな断絶が横たわる、とも言える)、常にある程度の不確実性が介在している。またそれを逆手にとって、キャラクターが偏在的に扱われている場合もある。そして結果、私たちはキャラクターに内在する偏在性をある程度感じ取っているのではないか。



以下余談。纏まってないし再考必死な感じ系。


これは「同級生」To Heart」にあった”キャラクターが居る場所を示す”というシステムがあまり見られなくなり、何故かキャラクターと出会えるというストーリィ――言葉悪いかもしれないけど換言すると、何となく道を歩いてたりしたら何故か都合良くヒロイン(キャラクター)と出会う――が一般的になったことが関係しているかもしれません。
このことに関して、僕はですね、何故かキャラクターと出会うという事実を物語の方が吸収していて、結果、受け手はその”何故か”単品を精査せずに物語の方を受容するというコードが出来上がっているのではないかと思うのです。今や「一般的」の形態でありますしね。
しかしそれは、「都合良く見えるかもしんないけどそういうことだから」という強引さが残る牽引でありますから、それに引っ張られなかった部分の、受け手側の懐疑として、キャラクター(ないし物語)の作為性が垣間見えてしまうと思うのです。先に記した<偏在性>というのはその内の一つですね。キャラクターを好きなタイミングで好きなように配置できるというのは非常に作為的である(実際は完璧に好き勝手なわけないですけど)。
随分前(多分99年くらい〜)のことですが、主人公がヒロイン的役割というか、主人公が救われる的な物語が増えたのは、その辺のこととも関わるかなとちょっと思います。その作為性の処理がコード化されておらず、キャラクターないし物語の作為性の表出に対し、「主人公」にフォーカスを当てることで対処された。これは何だろうな……よく分かんないんだけど、主人公が放課後ぶらぶらと商店街を歩くのも、何となく学校内を散策するのも、教室に忘れたノートを取りに夜の学校に忍び込むのも、てんで作為的に感じられない……ってあれか、連続性が描写されてるからかな。『そこに居る』理由や動機には足りなくても、『そこに居る』経路は描写されている。逆にヒロインの方は、そういうのが描写されないというのが、画面表示とその運用の件と合わせて都合的な感じがあるのかも? うーん、ちょっと後で考える。