「Kanon問題」から考える

これまでのあらすじ:半年以上前に書いて下書き状態で寝かしてたけど数ヶ月前にアップしてみたら某氏にどうでもいいと切り捨てられたのですぐ消しちゃったけど(笑)、なんか最近のお話聞いてたら3割くらい被るんじゃねえと思ったのでちょっと手を加えてアップしてみた。


「『Kanon問題』とは何か」。やーもう議論の核とか知りませんしそも何処を拝見すればよろしいのか存じなくて非常にこうなんといいますかー、正当な認識からは遠く離れていると自分でも理解しているのですが、そこはひとつファジーなお心持ちで、つまり閲覧者の方におきましては利用できる所は利用してやろうといった具合に、寛容なお心でご覧になっていただきたいのですが、さて、Kanon問題。「そもそも」や「正式に」などは存じ上げないので誤解を含んでいるかもしれませんが、方々で偶に目にする議論やお話を拝見させていただく限りにおきましては、大雑把に申し上げてしまいますと、「あるキャラクターのルートに入ると別のキャラクターが不幸になる(ぽい)」、それがそもそもの始まりではないかと理解しております。これはKanonにおいて明確に語られるわけではございませんが、たとえば、栞が病気から回復するのはあゆの(人形の)奇跡であると匂わされており、その奇跡の力はたった一回しか使えないので、栞以外のキャラクターのルートに入ると、そのキャラクターのルートにおいて奇跡の力が栞の回復とは別件で使用されるので、もしかして栞は助からないんじゃないか、そういうお話。「あゆルートにおいて奇跡の力が発動してない栞はどうなるの?」――「てゆうか奇跡の力がないんだからあれじゃね、助からないんじゃね?」――、つまるところそういう所ではないかと理解しております(これは勿論、栞やあゆや名雪(秋子さん)の名前を入れ替えても可能)。
もう少し敷衍的にすると、「誰かを救うと誰かが救われない」問題、ともいえるでしょう。言い換えると、「誰かのルートに入ると他のキャラ(主人公に選ばれなったキャラ)は不幸になるんじゃない?」問題。例えばこの記事なんかは(http://anond.hatelabo.jp/20071214114537)非常に、そういう想像力に基づいているように思えます。

ここまでが大雑把な説明。ここからがそこから考えるあるひとつの形式性・構造性について。ちゃちゃっと行く。
これをどう考えるか。ある一つの救いの裏には救われなかった存在がある、叶うことの裏には叶わなかったことという代償がある、ということが如実に表れている――とはいえまあこれは、沢山の平行世界を巡るギャルゲーという形態では当然ですね。それが目立つ瞬間ではありますが、そんなものはどんな些細な出来事にも瞬間にも含まれております。可能性の達成の裏には、常に、至ることなく消えていった可能性たちが埋没している。だーまえ先生(多分)もONEで仰っておろう。『これまでにも無数の分岐点があり、ここには至らない可能性がかなりの確率であったはずなのに、ここに至っている。まあ裏を返せば、どこかには至るのだから、その時々でそんなことを思うのかも知れないが、それでも自分の人生として考えてみると、やはりこの巡り合わせは特別不思議だったりする』、と。別にこの瞬間だけ平行世界なのではなく常に平行世界なわけで、この時間にあゆとたい焼き食べる世界とトレードオフで、この時間にあゆとたい焼き食べない世界とか栞とアイス食べる世界とか真琴と肉まん食べる世界とか何のイベントもなく家に帰る世界とかが失われており、叶うことの裏の叶わなかったことは、そういう風に目立たせなくても常に存在している――逆に言えば、そうでもしなきゃ意識しない、この巡り合わせに特別な不思議さを感じなかったりしない、ともいえますが。
なのに、このKanon問題というのはそこに何か迷いとか悩みとか怒りとか悲しみとか憤りとかあるいはそれに似た何かを覚えてしまうことが問題っぽい。多分。さっきリンクした増田さんの人みたいな感じ、可哀想だとか気の毒だとか。さてさてそれは何故なのか。平行世界の平行世界性、その届かないどうしようもなさに感情を抱くのか、それとも別の箇所にあるのか、はたして。


以下、前に書いたのとほぼ同じ&最後にプラス。

  • 「知ってしまったから」
    • 早い話が、そのキャラクターの不幸を、そのキャラクターの運命を、知ってしまったから。ここでいう知ってしまったは、ほぼイコール、既にそのキャラクターのルートをプレイしてるから、になるでしょう。『Kanon』の場合だと、既に栞ルートプレイしてると、あゆルートで「え、栞どうなるの?」みたいな疑問が生じてくる。 ・ヒロインがトラウマ・問題・不幸などを抱えていて(抱えることになって)、それを主人公が解決する・あるいは解決のお手伝いをするというのはよくあることですし、まさにそれこそがこういう「Kanon問題」が生じるうる下地となっているのですが、当然ながらわたしたちがそれを知っていてはじめてありえること――はじめて、問題足り得ます。
      • 共通ルートではトラウマ・問題・不幸をあまり見せない・萌芽状態なのに、個別ルートに入るとそれが表面化するというのはよくありますが、それは親しくなったから知れるということでありながら、かつ、この可能世界を巡るプレイヤーに対するある種の配慮にもなっているのかなぁと少し思いました。例えば初プレイ時にですね、ヒロインが5人居てそのうち一人がめっちゃ不幸!主人公だけがそれを解決できる!とか言われたら、別のキャラを選びにくいじゃないですか、とか。
        • 逆に言うと、個別ルートに入ってからトラウマ・問題・不幸が表面化してくるのは、意外とストレートに「親しさの表れ」みたいに思ってもいいのかもしれない。「私こんな不幸抱えてるの」「私こんな病気なの」と、個別ルートに入ると急に視えてくるのは、ある意味契約的だし、ある意味試されている感もあるし、ある意味運命を構築する点もあるでしょうが、それらをひっくるめて、その上で純粋な心持ちで接すると要は「親しい」ってことじゃん、みたいな、つか、そういう「錯覚を抱ける」じゃん、みたいな。
  • なぜか想像できない/なぜか想像しちゃう。
    • こここそが一番大きな問題でしょう。例えば、なぜ、あゆルートや名雪ルートに進んだ時に、栞が助かると想像できないのか。あるいは、なぜ、あゆルートや名雪ルートに進んだ時に、栞が助からないと想像してしまうのか。
    • 例えば現実の人間で考えてみましょう。わたしたちの過去には、彼・彼女が抱える問題をわたしたちが助けることができる予感を抱きながらも実際にはそれをしなかった――そういう点が、どこかひとつくらいはあるのではないでしょうか。あるいは、敷衍的に。恋人になれる予感・友達になれる予感を抱きながらも、決してそうならなかった他人、そういう人もいたのではないでしょうか。高校時代でも中学時代でも小学校時代のクラスメイトでも、会社やバイト先の元同僚でも良いです。想像してみてください。そこで、はたして、わたしが関与しなかったら彼らが絶対に不幸になったなどという想像ができるでしょうか。わたしが関与しなかった所為で彼らの問題が絶対に解決しなかったなどと想像できるでしょうか。
    • もちろん、↑ は少しいやらしく書いています。現実と『Kanon』との最大の違いは「既に在る」という点。既にして、栞が主人公に助けられる物語が(道が)(未来が)在って、それを参照にしているからこそ、わたしたちはそういう想像に辿り着くといえるでしょう。前者(現実の想像)の審級がリアリティであるのに対し、後者(Kanonの想像)の審級はKanon世界というリアル。Kanonの場合は「想像」つうか、もう既に「現実」としての物語が描かれてしまっていますから。既に栞ルートをプレイ済みのわたしたちは、その物語世界においては、未来からタイムスリップしてきた存在と等しいともいえるでしょう。「既に在る」というのは、”リアルなものは”、それしかないということでもあるでしょう。文字通りカノン。正統なる聖典としての正史は一個しかなくて、○○ルートという物語は一個(あるいはバッド/グッドなどの描かれる限りにおいてn個)しかなくて、それに因果的に乗りえない傍史はそうであるがゆえに、Kanon問題みたいな結実を結ぶことになる、そういう想像になるといえるかもしれません。あとでもう少し詳しく語りましょう。
  • 物語が用意するプレイヤーの視点/プレイヤーが物語に相対する際の視座
    • なぜ、栞は、何か知らないけど凄い幸運か凄い偶然かあるいはブラックジャック級の先生が登場して無事回復しました、という想像力が。あるいは、あゆは何か知らんけど医療の技術が進歩して数年後に目覚めて祐一と一緒に過ごすよりも超幸福でしたよ。という想像力が。または、主人公に選ばれなかったあるキャラは、主人公よりもっと良い男性と出会えて幸運に恵まれて幸せに暮らしました。という想像力が。無いのか。それは物語が用意するプレイヤーの視点/プレイヤーが物語に相対する際の視座にも関わってくるでしょう。
    • 形態というのは視座の強制でもある。たとえば、小説だったら、殆ど全ての場合において、形態上、受け手は「読者」という視座を余儀なくされています。それと同じように、ゲームもまた殆ど全ての場合において、「プレイヤー」という視座を、受け手に強制します。ここにおけるプレイヤーは、ゲームの物語をまるで神の目線からのように、その全てを見ることができます。少なくとも『Kanon』の場合は、まったくの字義通りの、全て。全部のルートを回って既読率100%にすれば、間違いなく、全て見たことになる。――ですが、それは一つ欠けている、あるいは、一つ以外全部欠けている。主人公に焦点が当てられすぎているという点。ザッピングや、一時的に焦点化人物が変わることはありますし、それが色濃く出ているゲームもありますが、しかし大抵においては――少なくとも『Kanon』においては――ほぼ全てが主人公の視点からしか語られていません。主人公から見た因果関係に依る物語しか見せてくれない――いや、正鵠を期すと、”存在していない”。だから想像ができない、といえるのではないでしょうか。既読率100%の「全て」の物語のなかに――ヒロインが救われる物語が、Kanonでいえば、あゆや栞や名雪が救われたり幸せになったりする物語が、それしかないから……というか、正確には、「それだけがあるから」。「それがあるから」。それがこのKanon世界のリアルと成り得てしまう。
  • これをお行儀悪くdisると「所有欲」と言い放つこともできるでしょう。『Kanon』なら、祐一が栞ルートに入れば栞は救われるということは、”主人公によって”栞は救われたと言っても過言ではない。これを、現実ではできない女の子の幸せを作り出すということをゲームの中ではできるという構造ができている、と言うことができる。そして主人公以外によって救われることが想像できないというのは、俺がそれを成し得るのだというその投影構造を守ろうという防御機構、まさに所有欲やら独占欲の表れである、と言うこともできる。……とまあ、自分で言っておきながらあれですが、これは半分真実でも半分嘘、そいつで話を終わらせてはならない。だいたいそういう欲望をはじめから持っていたというより、こういう構造のおかげでそういう欲望が生まれた、つうか発見・発明されたって感じの方が強そうです(パンツをはく習慣が生まれてはじめてパンツ見たいという欲望が生まれた理論的なニュアンス)。「プレイヤーの欲望」の話だけで終わらせてはいけないし、まず何よりその前に、こういう構造について話をしなくてはならない。


ということで、流用終わり。なんだこれしょべえ。それでは新規テキスト、欲望の話だけに終わらせないもの、続き。
先にも書いたように、ここでの最大の問題は「記されない」ということでしょう。バッドエンドやグッドエンド、トゥルーエンドなど何種類かはあるし、さらにそこから細かい選択肢で微妙な変化の分岐も起こるけれど、それだけしかないし、”それだけはある”。この「Kanon」を既読率100%にすれば、ここにある世界の全てが分かるのだけれど、それが本当に全てになってしまう。
つまり。平行世界というのは、そもそも、無限級に存在(潜在)しうるわけじゃないですか。それが無いのです。ここに描かれた分しか、ない。僕たちが世界を(何かを)認識するさいの”認識”というのは、無限級に存在(潜在)しうるわけじゃないですか。しかしそれもない。ここに描かれた認識以外は存在しない。ここに無い平行世界を妄想や二次創作で行ったって、それはやっぱりKanon世界には、ない。ここにない認識(それこそたとえば、あゆ視点だの名雪視点だの)を妄想や二次創作で行ったって、それはやっぱりKanon世界には、ない(そしてKanon世界は、既に完璧に「在って」しまっている)。
あゆシナリオで栞はどうなったかが書かれていないのです。でも、それでも実際に、助かったにしろ助からなかったにしろ、栞はどうにかなってる。どうにかなってる筈なのに、それが描かれていない。そこを見る平行世界はないいし、そこを知る認識方法もない。Kanonの中にない。Kanon世界にない。そこに絶対に辿り着けない。でも、ないけど、ない筈がない。描かれていないけれど、何かあった、何かした、描かれてない世界で、空間で、栞は生きていた筈なんだけれど、そこに絶対に辿り着けない。あるんだけど、あるっぽいけど、ある筈なんだけど、ない
Kanon問題というか、このギャルゲ・エロゲにおける平行世界的問題感、これのそもそものところは、この、描かれている以外のものが(瞬間が、時間が、人物が、物語が)ある筈なのに無い(届かない)ということ、この認識以外の認識がある筈なのに無い(届かない)というところにもあるのではないでしょうか。描かれりゃいいんですよ。あゆルートで栞がどうなったか、栞ルートで結局あゆはどうなったか、描かれれば話は早い。けれど描かれない。ハナから一つのルートしかないならば話は早いんですけど、そうではなく、あゆルートも栞ルートも、等価な平行世界として、在る。在ってしまう。それらにより、推測できる――あるんだけど、あるっぽいけど、ある筈なんだけど――と、その「無い」部分を推測できる。だけど、それは推測だけで、辿り着くことも確かめることも知ることも認識することも、不可能。そういう不可能性が、平行世界を等価に描くということで顕現してしまっている。このような構造が孕む不可能性、無いけど在る、在るけど無い、というその対象、それが生まれてしまっている。
えーと、そろそろまとめを。結局の所わたしたちはKanonをはじめとする大抵のエロゲにおいて、主人公くんの認識しか認識できないわけで、ここで描かれた幾つかばかりの平行世界しか辿れないわけなのですが、しかし実際にはそれ以外の認識とか平行世界とかありえるわけで、ここで描かれなかった「何かしら」も、その物語世界の中にあるはずなんですが、ないんですよ。ということです。その「あるはずなんだけど、ない」(実はそれは「あるはず」じゃなくて本当に「無い」のかもしれないのだけれど)に辿り着けない、そいつが見れる認識、そいつが見れる世界が「無い」(これは本当に「無い」)という軋轢が、ここにあるということですね。何だかすげー当たり前のことをグダグダ述べてしまった感じですがw、Kanon問題というか、このギャルゲ・エロゲにおける平行世界的問題感は、まずこの構造を出発点にしている、そして逆に言うと、そういう構造が、それらのギャルゲ・エロゲにあるんじゃないか、ともいえるかもしれません。