CLANNAD AFTER STORY 第9話が素晴らしかった

ので、久しぶりに本気になって感想を書いてみる……のですけど、久々すぎて空回りしている気もするけど、や、まぁ、気にしない方向で。


断絶と、それでも同じくする「感覚」

いわゆるBパートにおける朋也くんが卒業するまで。時間が一気に進んでいくという大胆さでもって認められたこの作りですが、いやはや、これがもの凄く良かった!
さて、いま、「時間が一気に進んでいく」と記しましたが、確かにBパート卒業までを要略して述べればそのように見受けられますが、決してそれだけではございません。「学校」での朋也くんの描写は、その殆ど全てが登校の様子やインサートされる学校生活の一風景をバックに彼のモノローグにより語られるという『要略』であり、それは正に「時間が一気に進んでいく」と同一ではありますが、しかしながら、例えば渚を見舞っている時、朋也が秋生・早苗から渚の留年の事態を聞き取った時、渚の誕生日(かつクリスマス)の時などは、先に記した朋也くんの学校生活における要略とは異なる描写のされ方をしていました。


さて、ここで話を一度戻して。


ここで肝になるのは、これが「Bパートからはじまった」ということ。これは一般的なテレビアニメに付き纏う文法ですが、30分間(実質的にはおよそ二十数分間)一続きで作品を鑑賞できるわけではなく、CMなどにより「断絶」が生じ、例えばCMを介しいわゆる「Aパート」「Bパート」が存在するように、一続きで鑑賞することは叶わないのです。
これを――CM挿入により作品世界が画面から途切れるという「断絶」を――ここでは逆手にとったかのように上手く活用されています。
そう、まず、「時間が一気に進んでいく」と記したように、これ自体がCLANNAD内の他と示して「断絶」的である。(第一期も併せて)30話ほどかけて、作中で5ヶ月ほどの期間を、緻密な連続とは言い難いですが圧倒的な省略も跳躍もせずに描写してきたこれまでに比べると、全く異なっています。これまでと断絶的である/これまでの文法から逸脱している。「これまで」と「ここ(この一連の描写)」の二者を対立させれば、後者はこれまでに阻害されている・これまでの外側にあるように見受けられるほどの差異でしょう。そしてこの多大なる差異は、視聴者に対しても大きな違和を感じさせたのではないでしょうか。今までと丸っきり違うコレは何なのだと、軽く置いてけぼりにされた視聴者も(特に原作を知らない方などに)多いのではないでしょうか。
ここが、二つ目の「断絶」。視聴者と作品(ここの描写)自体が、”これまで(の文法)を踏襲しないこと”により、断絶的に作用している。視聴者を阻害している・視聴者を外側に置くような疎外感を醸し出しています。これは、先にも記したように「Bパートからはじまった」ということ(一端物語世界を中断させた)により相乗されています。さらに、その「一端中断した上で」、朋也くんのモノローグと彼の表象かのような断片の描写(「学校生活の一風景をバックに彼のモノローグにより語られるという『要略』」――「絵」自体は、それ単品ではここでは重要なことは何も語りえないような絵ばかりで、モノローグが付くことにより機能を発している)という二つで非常に強く彼に焦点化していながら、それがBパートからはじまったという断絶・ならびに(というか、それに相乗するかのように)視点面も視聴者との同一化の回避も、そこに拍車を駆けます。……と、取りあえずその辺は後述するといたしまして。
最後に、物語世界内での、朋也くんと他者との「断絶」。本当は春原や杏たちとそれなりに楽しくはやっていたのかもしれませんが、少なくともそういう描写は無く、殆どの場面において彼一人。朋也くんが学校(の共同体)から阻害されている/している・それの外側に居るかのように見受けられるような描写でした。

ここではそれぞれ、異なるレイヤーにおいて、異なる理由と異なる形態での「断絶」が生じているのです。さて、ここで最も興味深いのは、それらがそれぞれに「異なる」のに「同じ」というところ。例えば、この極端な変化に「何だいきなりワープみたいな話の展開になってわけ分かんねーな、付いてけねえな」と、阻害されているような・外側に居るような・置いていかれているような感覚を受けたとしましょう。しかし、実はその様な感覚――阻害されているような・外側に居るような・置いていかれているような感覚――も、理由も動機も別物ですが、しかしその感覚だけは、作中の朋也くんと同じなのです


断絶と、それでも共に持ちえる「喪失」

この朋也くん一人語りであっという間に時間が進んでいく描写は、視聴者の朋也くんへの同一化を巧みに迂回しながら(結果的に迂回しながら)行われています。「Aパート・Bパートという断絶」――CMによる中断で、一端物語世界内における視座を取り上げられていながら、「これまでと異なる描写の仕方」――CLANNAD内に存在しないコードにより、視聴者を穿たせ、さらにここから始まるのが、視聴者を誘導・導入する線を引くことなく行われる朋也くんへの「心理面での焦点化」――モノローグや表象的な絵のように――により、物語世界ならびに朋也くんに対し隔絶を感じられる。
ここにおいて最も重要なのは、それにも関わらず、その断絶性だけは、阻害されているような・外側に居るような・置いていかれているような感覚だけは、朋也くんも視聴者もある程度共同して持っているという、朋也くんに寄り添わなくても”それだけは持てる”という部分にあります。
朋也くんに感情移入できたって人も、わけ分からんし置いてかれた感があるって人も、その感覚だけは共通して持てている。


さて、そのBパートの、卒業式までの、一気に時間が進んでいく描写ですが、全てにおいてそれであったわけではありません。冒頭にも記しましたが、渚を見舞っている時、朋也が秋生・早苗から渚の留年の事態を聞き取った時、渚の誕生日(かつクリスマス)の時などは、先に記した朋也くんの学校生活における要略とは異なる描写のされ方をされていました。
このことが何を意味づけるかと言うと、つまりは「渚」の重要性、渚に回帰する事柄を意味付けていると捉えることが出来るでしょう。渚が居なくなった(「不在」している)ことによりこのような状態になり、しかし渚が居る・会話の中心として絡む(渚留年の箇所/有紀寧からビデオ借りる箇所)部分では、以前と同じ様に描写される。
この二つ――渚の存在/不在による変化――は、朋也くんにとっても視聴者にとっても同じに作用しています。渚の存在によって、このBパート内だけでも、あるいは第9話全体を取ってみても、はてはCLANNAD全てを見てみても、意気込みも動機も生活も――つまりCLANNADは人生的に言えば彼の人生自体が――大きく変化している朋也くん。それは、彼の心理面に焦点化しそれをイメージするような映像とそれを意味付けるようなモノローグによって構成された”ここの描写”にもダイレクトに連関している以上、実質的には視聴者にとっても”同じ”なのです。
ここでも、先に取り上げた、阻害・外側・置いていかれるの感覚と同じ様に、理由も動機も異なっている可能性を孕みながらも、感覚だけは、朋也くんも視聴者も同じくに共有しています。朋也くんにとっては、渚の不在が何もないと同質なこの表象なくらいに大きな「喪失」である。視聴者にとっては、焦点が朋也くんに当っているここでは彼が介在的であることにより、渚の不在がその映像・描写に大きな「喪失」をもたらしている。
朋也くんに感情移入できていなくても、話に付いていけなくても、逆にそれが可能だったとしても、如何なる場合でも、その喪失という感覚だけは共有されているのです

先の展開を考えると、(ネタバレなので反転文字)この(渚/古川家への)フォーカスの合わせ方も、喪失の重み付けも、非常に上手い――さらにいえば、敢えて”朋也くんの心情に寄り添わずにそれを引き出せたこと”も、非常に上手く、後々に効果的に働いてくるだろうと思えます。(ここまで)


回帰

さて、今回はカメラの動きや構図のとり方が興味深かったです。ここまでに記してきたものを補強したり、あるいは帰結させたりする点を、物語のほかにそこに求めることはある程度可能でしょう。
例えば、Bパートにおいては、非常に強く朋也くんに寄り添う心理面での焦点化が起こっていたのですが(その上で寄り添わないでも(というか寄り添いづらい作りでありながら)視聴者はそれを共有できるという、視聴者≠朋也でありながら視聴者=朋也であることを策定する作りでもありました)、視点面での焦点化も僅かながら行われていました。




その最たる部分がここ。

そうだ。
俺は子供だった。
何人かの友達の力になることができて、少しはましな人間になった気でいたけれど、好きな女の子が卒業できなくなるかもしれない。
それだけでもう、どうすればいいか分からなくなるほど、俺は子供だった。

12月になると、周囲はますます慌しくなった。
受験、進学、就職。
俺一人が取り残されていた。

まず「何かを見る」という人物の描写(引用画像の上)の後に、その「見ている対象」(引用画像の下)が描写されれば、それは『彼(作中人物)と私(視聴者)が同じ物を見ている』というのを強く印象付け、意味付けます。このような「目付け」が行われることで、同じ物を見ているという意識が投錨され、さらに、そのカメラの位置によっては、彼の目で見ている(主観視点)という意識に結び付いていくのです。


Bパートでこのような「見る」ことの同一性は、ここの前の渚留年の件での会話でも少し執り行われて(いたので、モノローグはそこから地続きに引用しました/尚、そこのシークェンスでのカメラの動きも、暗闇(作品世界内にて不可視の/不確定の領域)から朋也くんに近づいては彼の発言によって離れたりなどと、非常に興味深い動きを見せていました)いました。この箇所を僕が恣意的に選択したのは、これは当然お気づきの方も多いかと思いますが、中庭のこの木の下という場所、ここであんぱんを食べるという行為、これが丸っきりCLANNAD(第一期)初期の渚と同じで、また、このシチュエーションも、ここで朋也くんが見ている(そして視聴者も見る)ものが、その頃に朋也くんが渚に「ほら、手を振ってみろよ」と促がしていた時と、丸っきり同じだからです。
ここには――この描写は、あの頃の渚を想起させて、その類似からあの頃の渚は今の朋也くんのような阻害・外側・置いてけぼりを感じていたのかということも喚起させて、逆に今の朋也くんはあの頃の渚のようなことを感じているのか・そのような状態にあるのかということも繋がって、かつ、あの時朋也くんが渚にかけた言葉が彼と視聴者に、今度は言葉をかけられた渚側として再度帰ってきて、かつ、今の”ここ”には、渚にとっての朋也くんのような、あの時言葉をかけてくれた存在が居ないということが浮き彫りになって、そして、朋也くんと視点を共有することであの時の遅延して渚とも視点を共有して、さらに、朋也くん―渚―そして視聴者の三者が、ここを通低に繋がる、共有するという連鎖を見て取れます。

12月になると、周囲はますます慌しくなった。
受験、進学、就職。
俺一人が取り残されていた。
また、そうではなくても(渚がここに居たことを思い出さなくても)、視点の共有とこのモノローグだけで断絶の図は伝わりますし、そうであるならば、それはより、大きな効果と意味をもたらすでしょう。


歩く姿と不在の姿


Aパートは、一瞬の映りこみや方向転換などで生じる分を除けば、最後の箇所を除いて、朋也くんが歩いている部分は全て前・あるいは横・上方からのカメラで、後から写すということはありませんでした。


Aパートの最後で、後から映す、カメラと言う視座から朋也くんが離れていくようなものがはじめて行われます。(これは先に記した「断絶」に強調的な符号であるとも言えるでしょう)


続くBパート、朋也くんが歩く場面は当分のあいだ全て後から・あるいは横から・上方からのアングルでして、これは卒業式が終わって学校から朋也くんが離れるまで続きます。


そこで唯一、前方からだったのが、”渚と一緒に”学校に行こうとした場面。


卒業式後。学校から離れて、学校の皆とも別れて、新たなはじまりに面して、はじめて、カメラと言う視座に彼が近づいてくるような、あるいは彼が近づくと同時にカメラも下がっていく、共同歩調を取っていくようなものが行われます。


そして最後。「手を繋いで歩く」となった後、画面は誰も居ない桜並木の通学路に転調するのですが、その瞬前に僅かばかり、カメラの方に歩く(前から捉える)かのような(かのようなであり、不確定である)二人の姿が映りこみます。


これらそれぞれに、確固たる意味は確定しえませんが、しかしこのように、描写に一定性を生むことで、それらの束が暗喩的に作用しています。例えば、単純にカメラが前方にあるという位置関係なだけなのですが、しかしそれは、「前を向いて歩いている」=つまり「未来に向いている」を想起させるに至る。あるいは、カメラをこちら側とあちら側とを繋ぐ装置と見立て、それに依拠して、視聴者の方へ歩み寄っていると見立てる。あるいは、

過去への追憶で挿入された、第1話のこの二人で坂道を登って学校に向かう絵図と対比させてもいい。



この紡ぎの最後は、この第9話の部分にかかるでしょう。

立ち止まることなく歩きたかった。
どこまでも、どこまでも。
ずっと続く坂道でも、ふたりで。
歩く姿を、後から、前から、それぞれに意味を暗喩させるように描きながらも、最終的には手を繋ぎ歩く姿を殆ど見せることなく、誰も居ない、「不在である」坂道で一連を終える。
この坂道は、はじめから何も・誰も居ない坂道ではなく、「喪失」が投錨されている坂道であるということを、この一連で視聴者は「知っている」

(ネタバレなので反転文字)これヤバくね?もの凄くね?(ここまで)



個人的に思い出すのは、第一期CLANNADの放送最後の回(23話番外編)の最後、歩いていく彼らと追わないカメラ。これは、ここで渚が言う「ずっと一緒です」に”視聴者が含まれて居ない”ことを暗示するかのような構図であると捉えました。第9話ラストと第一期番外編ラストを対峙させると、この線(ネタバレ的には、この線での読解は十分有効だと個人的には思う)――この、視聴者に対する「喪失」を、ここではさらに加速させているようにも見受けられました。居ないけど、「居た」ということは確実であるという不在。



えっと、そんな感じで、終わりです。情感篭りまくってる第一印象(見た後すぐ書いたやつ)は、2個前くらいの記事にあります。